母の思い出
2008年 03月 10日
33回忌ですから、母が死亡したのは昭和51年(1976年)ですが、実はその時期には、私自身はポーランドに長期留学中で帰国できず、翌年に帰国してから墓前にお参りするという結果になったことを、あらためて母に謝らなければなりません。
母についての思い出を記して、せめてもの感謝と供養の一端にしたいと思います。
母は、それなりの家系の農村地主の家つき長女としれ生まれ、養子として入籍した父と結婚して、5人の子供を生みました。戦前は、生活も比較的に安定し、地元では祖父が三等郵便局長をし、大阪の工業奨励館に就職した父とともに大阪に住んだ経験もあります。
しかし、帰郷した後の戦中・戦後の生活は一挙に悪化し、自ら田畑の農作業をし、とくに父が死亡(55歳)した後は、苦しい生活を強いられたようです。真っ先に浮かぶのは、母が大きな家をきりもりするために、毎日一生懸命に働いていた野良着姿です。
母自身は、親が学校に行かせてやるといっているのに、小学校の高等科を出ただけで、女学校にも行かず、勉強はきらいだといっていました。大阪での都会生活の模様もほとんど語らず、田舎での地味な農作業と家事と育児に文字通り専心した一生だったと思います。
私が大學に入りながら、結核になり、郷里で療養していた頃には、文句も聞かされましたが、大學の教員に採用されたときは、毎日大學に行かなくてよく月給がもらえるものだなあと不思議がっていました。5人の子供のうち、私の妹は早く亡くなりましたが、あとの4人は今も健在で、母も喜んでいることと思います。母は大の写真嫌いでしたので、母の写真はほとんど残っていないのが残念です。

