蒸留水を蒸留する?
2008年 02月 16日
刑法の分野では、とくに、小野清一郎博士がその先頭に立って、『日本法理の自覚的展開』(昭和17年)という著書・論文の中でこの問題を精力的に論じられたのですが、その克明で情熱的な論理には、今読んでも圧倒されてしまうほどの迫力があります。それは、刑罰の本質を犯罪に対する道義的な「応報」・「贖罪」と考える旧派(古典派)の刑法思想に由来するものですが、日本法理の自覚は日本民族的・日本国民的・日本臣民的体験に基づかなければならないとし、それは皇国の道としての君臣・父子・夫婦・親族・同胞という人倫生活の道理の中に内在しているといわれたのです。
これに対して、牧野英一博士は、刑法の目的が犯罪の予防(社会防衛)にあるとする新派(近代派)の立場から、冷静な批判を展開されていますが、そこでは、われわれも「日本的なもの」を考慮するけれども、小野博士の「日本法理」がいかにも「幽玄なる刑法理論」であるだけでなく、「自己陶酔」とは言いたくないけれども、「目的を超えた目的」というような表現は、「蒸留水を蒸留する」ようなものだとして批判されていたのが注目されるところです。
さて、佐伯博士の場合はどうか、というのがこれからの検討課題です。

