竹田直平先生のこと
2007年 05月 19日
最近、古い資料の中から、河上肇全集(岩波版)書簡集(1)の中に、竹田先生にかかわる記事を発見しましたので、以下にその内容を引用しておきます。
① 大正12年1月14日 大原社会問題研究所内 櫛田民蔵様宛(封書)
竹田直平氏持参 河上肇
「拝啓 本日突然別紙の如き紹介状と自筆の手紙を有った青年がいきなり田舎から出て来て私を訪問されました。ご承知の通り私はじきに人にだまされるので私の鑑定は当てになりませぬが、可なり志操堅固に見受けられますので、一応あなたの方にご紹介して見ます。私の考えでは、しばらく研究所の雑用を手伝はして下すって、その余暇に先づ何はさておき外国語の習得をさせたらと思います。折角遠方から来訪されたものをそのままつきはなすのも気の毒ですし、また当地の下宿先へホーツておいて無駄な金を使はすのも痛ましく思いますので、私は兎も角当人が食っていけるだけの仕事を見付ける事が急務のように考えました。それについては、所の方へともかくもお願いして見たいと思ったのです。高野博士とご相談下さいましてもし研究所の方がご都合ができなければ関西大学の事務員にでも採用して頂くことはできますまいか? いきなりあなたの方へ責任を転嫁するやうですがさし当り私によい考えがないので無遠慮ながらご迷惑をかけます。仔細は当人からなほおききとりを願います。匇々頓首」。
② 大正14年1月17日 兵庫県武庫郡西ノ宮川尻2572 櫛田民蔵様(封書)
京都吉田 河上肇
「拝啓 竹田氏参上ご配慮を辱くいたしましたる由ありがたくお礼を申し上げます。所の方多分駄目だろうとは思いますが、ともかく所長のお帰りまで待たせておきます。そのうちに書生の口を1ヶ所と職業の口を1ヶ所と、ともかく聞いて見やうと思う心当たりがありますから、それを聞き合わすつもりでゐます。さうして何れもこれも駄目なら仕方がありませんから、国へ帰って貰うようにすすめて見ようとかと思っています。ご多忙中ご面倒をもちかけて済みませんが高野博士がお帰りになったらともかく一応のお話をお願いしておきます」。
なお、以上の書簡集のほかにも、河上肇博士が直接竹田青年に対して、恒藤恭博士(同時同社大学経済学部助教授)の私宅を訪問するようすすめられている自筆の手紙も残されています。そこには未知の向学の青年に対する暖かい思いやりの心がにじんでいます。
(私も、「竹田直平先生のご逝去を悼む」という小文を書いています。刑法雑誌38巻2号、1999年)。