盤珪禅師
2007年 03月 31日
「盤珪禅師は播磨国龍門寺の住持にして識徳一世に高く、教を請ふ者常に門に満てり。或年仏道修行の催ありし時、来り集る者頗る多かりしが、其の会衆中、金品を失ふ者数人に及べり。然るに間もなく1僧の所為なること明らかとなりしかば、会衆一同禅師に言ひて、直ちに之を追放せんことを請ひぬ。禅師『よしよし』と其の旨を聞入れしかど、更に追放のことなかりければ、数日の後、会衆は総代を以って再び此の事を言出でたり。禅師、此の度も『よしよし』と承諾したるのみにて、少しも彼の僧を追う様子なし。かかること尚3度4度に及びしかば、会衆大いに立腹し、『若し彼の僧を追放し給はずば、我等は1人も残らず退散致すべし』と言出でぬ。其の時禅師一同に向ひて、『退散したしとならば、心のままに退散せらるべし。御身等の如く修行を積み行正しき人々は何処に行きても宜しかるべし。されど彼の僧は、我捨去らば誰か之を教へ導くべき。此の度の催の如きも、かかる悪心ある者を教化せんためなれば、盗をしたればとてみだりに追うべきにあらず』と諭しければ、会衆も大いに感じて、申出を取下げたり。彼の僧も亦此の次第を聞きて、禅師の徳に感泣し、己が前非を悔い、一同の前に出でて涙ながらに悪事を懺悔し、其の後道徳堅固の僧となりしとぞ。」
以上が、その内容ですが、ほかの文章にも、当時の生活感覚に即した実務的な記述が多く、忠君愛国とか勧善懲悪といった上からの道徳の押し付け的な感じがほとんど見られないのが印象的です。それは、大正デモクラシーの時代感覚の影響とも考えられます。小・中学校の教科書の記述の歴史的な変遷に注目すべきでしょう。