先師・乾満昭氏のこと(2)
2006年 11月 20日
若狭一の宮は、明治4年5月14日、国弊中社に列せられたが、神社分離の嵐の中でその維持に困り、その後10年ほどの間に、神域も荒れ放題であったところ、勅任官の宮司として着任されたのが乾満昭氏であります。碑文によりますと、乾氏は薩摩(鹿児島県)の産で、清和天皇の曾孫正一位源満仲(大江山で酒呑童子を退治した源頼光の父君)の32世の曾孫で、人となりは公平無私、上をおもねず、下をしのがず、豪胆、しかも知略あり、大変な人格者であったと刻まれています。着任されるや、社殿、神園の荒蕪を痛嘆し、翌年1月雪犯上京し国費の支出を求め、時の政府は国費多端の中にあったがその誠意を認め、国費支出を決したのであります。・・・・・・ 地域の氏子は、氏の偉業功績を顕彰し、後世に残さんとし、明治20年3月にこの碑を建立したのであります。
なお、以上のほかにも、大正15年5月15日付の古いメモ(筆者不詳)には、「(乾満昭氏は)退職後東京赤坂区高樹町12番地に住居す姿性剛健自らを持すること厳正祖先累代の遺志を継承して深く仏学を修し大乗の法を説き貴神庶人の教えを受くる者多く敬慕やまず其死後既に17年を過ぐるも墓前香華を絶たず其墓碑は伯爵堀田正倫田中久左衛門等を始め在朝在野の弟子の建つるところなり」という記述があります。
問題は、先師・乾満昭氏の氏子と弟子たちの帰趨であり、それが乾長昭氏の弟子たちとどのようにつながっているのかという点の解明にかかっているといってよいでしょう。次回はできれば赤坂全二氏に面会したいと思っています。

