澤藤昭さんのこと
2006年 08月 14日
彼と私は、戦前の旧制虎姫中学時代に同級生として5年間をともに過ごした間柄で、なつかしい思い出が多く残っていますが、上記の追悼文を読みますと、数学の先生としての彼の本領を改めて目の当たりにする思いがします。そのいくつかを紹介しましょう。
「先生が黒板に描かれるフリーハンドの円は、半径の大小にかかわらず実に見事なものである。休み時間になると生徒たちは誰彼なしにコンパスや紐で検証して、その正確さに感動する光景はいつものことであった」。「先生のガリ版の字の美しさはほれぼれするものでしたし、ところどころの余白に、関係する旧制高校の寮歌や、こぼれ話などを入れて下さいました。・・・しかも先生の口癖に『道はひとつとは限らない』ということで、誰かが黒板のところで解いた後で、いくつもの解法のヒントをいただいたり教えていただいたりしました。中には、高校のレベルを超えたものもありましたが、高い数学の世界をかいま見る瞬間でありました」。
澤藤昭さんは、旧姓を門池といい、当時のわれわれのクラスでは、数学は断然トップでした。田村録郎、山岡三郎先生の難しい授業の内容も彼がやさしく解説してくれたものです。三高から京大の数学を出て、すぐに母校に招聘された心やさしい秀才だったのです。
ただし、彼は体力が今ひとつで、体育はまだしも、当時強制された軍事「教練」が大の苦手で、しばしば教官(特務曹長)に怒鳴りつけられるという場面がありました。しかし、それが、教員になってからも、必ずしも文部省の「指導要領」にはこだわらないという芯の強い姿勢につながったのかもしれません。
また彼は、非常に几帳面な世話好きで、私ども虎中20回生のクラス会の幹事役として、長年世話を続けてくれていました。彼の役を引き継ぐ人がなく、このところクラス会は中断していますが、一番再開を期待しているのは彼ではないかと思います。