8月15日の原点
2006年 08月 14日
しかし、一歩現実に足を踏む入れると、憲法9条のもとで自衛隊がまかり通り、アメリカ軍の軍事基地が要所に居座り、国家・国旗法が教育現場を威圧し、米軍に協力して自衛隊がイラクに派遣されるなど、平和憲法は空洞化の危機から、改正の危機にまでさらされています。
今、靖国神社の問題が政治問題化していますが、小泉首相の言動がほかの問題にように簡単に受け入れられないのは、それが個人の心の問題であるとか、公約の実行であるとかいう理屈だけではすまない、もっと深刻な問題であることを一般市民が直感しているからではないかと思われます。
この靖国の論議をめぐっても、すでに多くの混乱が出ていますが、問題の焦点は、大東亜戦争とその敗戦を基本的にどのように評価し、その責任をいかに明らかにしていくべきかという点にあり、この肝心の点が戦後もずっとあいまいにされてきたことこそが問題であります。
今はっきりしていることは、靖国神社当局が遺族の意思を無視して祭祀者の名簿を作成し、A級戦犯も合祀してはばからなかった点にあり、遊就館は殉国の英霊を顕彰するとしながら戦争への反省と平和には黙しています。少なくとも、A級戦犯合祀論には、遺族だけでなく一般世論にも疑問があり、それが昭和天皇の「強い不快感」にも心情的につながったものと思います。
しかし、今の政府も靖国神社も、反省の色すら見せず、「政教分離」という名目を巧みに利用して、現状の維持延命を図り、ここでは「改革」路線に背を向けています。
昭和天皇のA級戦犯合祀に対する不快感と以後の靖国神社参拝拒否という行動は、ひとつの見識として評価できるものですが、今では天皇のそのような行動の影響すら限られたものになって無視されてしまいそうな状況にあります。天皇の威光を利用してきた権力者も、まずいと思えば無視してはばかりません。しかし、国民への影響はまた別で、少なくともA級戦犯合祀の点は疑問であるとする世論が自然に形成され、それがさらに大東亜戦争の戦争責任論へと発展する道筋を期待したいものです。