昭和30年当時の仙崖荘
2006年 08月 08日
これは、昭和30年(1955年)4月6日付の中部日本新聞(福井版)の記事ですが、その中には以下のような記載が見られます。
乾長昭氏は「若狭聖人」といわれた賢人だった。同家の系図によると、清和天皇の孫経基王の末孫で源満仲公の34代目にあたるという。昭和2年60歳のとき遠敷群上中町下タ中区の小丘にいほりを建て仙崖荘と名づけて老後の余生を送った。ここで当時の区民らに「人生いかに生くべきか」の哲理を教えたのが実を結び、同氏の死後も毎月1回、命日にあたる19日に60余名の農家の人達がいまもなお野良着姿のまま集って修養の道を励んでいる。
慶応3年9月10日出生の乾氏は、伝記によると6歳で実父満昭氏から漢学を学び16歳で独立、和漢の古典百巻を読破、東都に遊学して法政大学法科卒業後は仏教哲学を研究して真理をきわめたとある。下タ中区酒類販売業北原文左衛門氏らのすすめで昭和2年ころから他界した昭和13年1月19日までの10余年間、八幡山を背に美しい樹木に囲まれた仙崖荘で希望者を集めて哲学講座を開き、モンペ姿の純朴な農夫がつめかけて百ブツ(勿)訓、如是観、正信ゲ(偈)阿弥陀教など、宗派に関係なく難解な仏典をかみ砕いてわかりやすく聞かせた。むつかしいもの、わからないものをありがたがる盲従的な観念は強く排撃した。・・・・三方郡十村地方からも熱心な青年男女が集り、多いときには受講生は百余名に達し,6畳2間の仙崖荘は人ガキで埋まったほどだったという。
以上が当時の記事の内容です。おそらく最大の疑問は、小学校卒業程度の教育しかない農民にどうして仏教や哲学の難しい経典の内容が理解できたのか、そんなものになぜ興味を抱いて自発的かつ継続的に勉強するようになったのかという点にあるでしょう。今回、門人の子孫の方にその点を質問してみたら、話の内容よりもむしろ師の人柄を慕って集り、その教えを一生懸命に勉強したのだろうということでした。そこには、今日の教育にとっても考えさせられるものが含まれているように思われます。