若狭の賢者(2)
2006年 06月 12日
「先日迎えてくられた人の中に、田辺さんという婦人がありました。この人も無論小学校だけしか出ていないのですが、14歳の時から仙崖荘の講筵に列し、先生の教へられた如是観などは、全文を暗誦していると伝聞していましたので、特にたのんで読んで貰いましたが、いかにもあざやかに理解し、記憶し、一字も誤らずに朗誦せられました。如是観その他、先生の作られた詩文を、大抵のお弟子たちは、先生に書いていただいて、立派に表装し、美しい箱に収めて秘蔵していまして、私の参りました機会に持参してみせてくれられましたが、その扱ひの鄭重なる事、昔の藤樹先生の筆蹟に対して示した人々の態度と同一でありました。
念の為に、少しく如是観の文を掲げませう。
『望浮雲之富貴、冀槿花之栄華、厮競厮争無寧日、老而終不得安処、死而空為青山之土了、是為群生之常態也、白眼観世間来畢竟太俗生、覚者則理智明灼越生死、而心無擬無苦悩、崇高之偉蹟長不滅、荘厳之霊光燦照千古矣、於乎覚者群生天性固是同一、而一煩悶一悠悠、相隔遠哉、』(下略)
14歳の少女が、之を読み、之を解し、之を楽しむに至るといふは、非常の事であります。今の教育学、児童心理学の夢にも知らざる世界であります。かしくて昨日までは、低俗浮薄の俗謡の歌はれたところに、これよりは論語の暗誦が始まり、下中を中心とする附近の村々は、礼儀礼節の郷と化したのでありました」。
「先生の亡くなられたのは、前にも述べましたように、昭和13年1月19日の事でありますから、今から17,8年も前に当ります。しかるにお弟子たちは、毎月19日、先生の命日を迎へるたびに、ここに集まって、先生の遺影を拝し、遺訓を拝読し、戦争の激しかった時にもこれを欠かさず、戦後混乱の日にも之を廃せず、以って今日に至っているのであります。そして今も先生の遺影の前に出て、もしくは談ひとたび先生の事に及べば、必ず膝を正し、正座せずには居ませぬ。「先生は安座せよと言はれたが、お許しが出ても、とてもとても膝が崩せるやうなものではありませぬでした。それで夜ふけて帰る時、座敷をすべり出て、縁側をあるく時には、誰も彼も足が言ふ事をきかず、足の甲であるいていたものです」と、楽しげに語るもでした」。