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最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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若狭の賢者(1)

 最近亡くなった妻の祖父にあたる「乾長昭(いぬい・おさあき)」について、平泉澄著『山河あり(全)』(平17、錦正社)の中に、「若狭の賢者」として紹介した一文があるのを発見しましたので(214頁以下)、その内容を何回かに分けて紹介したいと思います。
 「賢者の遺宅である仙崖荘・・・の奥の6畳の間、床に写真をかかげて祭ってありますのは、今は亡き此の家の主人、里人の恩師と仰いで、敬慕してやまない乾長昭先生であります。先生は佐土原藩士乾満昭の子、慶応3年9月10日、鹿児島で生まれられましたが、父が国幣中社若狭彦神社の宮司を拝命せられましたので、従って若狭へ来、ここで成長せられ、遠敷郡遠敷小学校を卒業し、進んで京都第一中学校に学ばれましたが、その後北海道に渡って開墾に従事しつつ苦学し、東京法政大学を出て長野県に奉職し、更科・佐久・北佐久の諸郡に郡長として歴任した後、大正10年退職、やがて少年時代の想出なつかしい小浜へ帰り、恩給で暮らしている身が、遊んでいては申訳がない。君恩に報じ奉る一端にもと、縁ある人々に学を講じ、徳を勧められたのがもとで、遂に下中の里人に迎えられて、此の仙崖荘を建てて此処へ移り、しづかに道を講ずること約10年、昭和13年1月19日、72歳にして永眠せられたといひます。
 講筵の開かれたのは、一週に4回、すべて夜分でありました。昼は終日、鍬をとって田畑を耕し、夜になると講義を聞いたといひますが、講義には四書、特に論語が多く用いられたとの事です。何分にも僻地の農村で、村の人々は小学校の教育だけしか受けていないのでありますから、それには四書は随分むつかしく、難読難解であれば自然砂を噛むような気がしなかったかと、普通ならば想像せられ心配せられるところでありますが、実際はさにあらず、人々は先生の指導によってよく古典を理解し、その醍醐味を味って、日暮れては鍬を棄てて仙崖荘に集まる事を楽しみとし、一週に4回といへば多すぎるかと思われるのに、寧ろそれを少なすぎるように感じ、よろこんで来り集まったのでした。中には峠を越して隣郡の倉見村から通った人もあるといひます・・・」。
by nakayama_kenichi | 2006-06-11 20:59