若狭の賢者(1)
2006年 06月 11日
「賢者の遺宅である仙崖荘・・・の奥の6畳の間、床に写真をかかげて祭ってありますのは、今は亡き此の家の主人、里人の恩師と仰いで、敬慕してやまない乾長昭先生であります。先生は佐土原藩士乾満昭の子、慶応3年9月10日、鹿児島で生まれられましたが、父が国幣中社若狭彦神社の宮司を拝命せられましたので、従って若狭へ来、ここで成長せられ、遠敷郡遠敷小学校を卒業し、進んで京都第一中学校に学ばれましたが、その後北海道に渡って開墾に従事しつつ苦学し、東京法政大学を出て長野県に奉職し、更科・佐久・北佐久の諸郡に郡長として歴任した後、大正10年退職、やがて少年時代の想出なつかしい小浜へ帰り、恩給で暮らしている身が、遊んでいては申訳がない。君恩に報じ奉る一端にもと、縁ある人々に学を講じ、徳を勧められたのがもとで、遂に下中の里人に迎えられて、此の仙崖荘を建てて此処へ移り、しづかに道を講ずること約10年、昭和13年1月19日、72歳にして永眠せられたといひます。
講筵の開かれたのは、一週に4回、すべて夜分でありました。昼は終日、鍬をとって田畑を耕し、夜になると講義を聞いたといひますが、講義には四書、特に論語が多く用いられたとの事です。何分にも僻地の農村で、村の人々は小学校の教育だけしか受けていないのでありますから、それには四書は随分むつかしく、難読難解であれば自然砂を噛むような気がしなかったかと、普通ならば想像せられ心配せられるところでありますが、実際はさにあらず、人々は先生の指導によってよく古典を理解し、その醍醐味を味って、日暮れては鍬を棄てて仙崖荘に集まる事を楽しみとし、一週に4回といへば多すぎるかと思われるのに、寧ろそれを少なすぎるように感じ、よろこんで来り集まったのでした。中には峠を越して隣郡の倉見村から通った人もあるといひます・・・」。