わが青春のひもじさ
2006年 03月 21日
「みんな食べざかりの若者なのに、食糧事情が悪く、体重が40キロを割ってきました。その上、訓練がきつく、疲れはてた毎日でした。ともかく食べることが第1の関心事で、煙突の煙の出方で今日の食事はなんだろうとあてっこしていましたよ。
1ぱいの盛りきり御飯だけで、不思議に他人の御飯の方が多く見えた。それにハエが御飯の中に入っているとお代わりが出来たので喜んだものです。しかし、だんだんサツマイモが主食となり、茎まで食べました。砂糖や石けんもありませんでした。傷ができたらビタミンCの欠乏でなかなか治らなかった。みんな同じ生活だから辛抱出来たのだと思います。
訓練で一番きつかったのは陸戦で、鉄砲かついで海岸を走るのです。足がのめって走れないし、倒れても鉄砲には砂がつけられない。あまりつらいので病気で休む生徒もいた。艦砲射撃で実弾の下をくぐった時は怖かった。
海兵や陸士を避けて商船に来たのは、徴兵がいやなものやロマンを求めてであった。だから、水泳でも3分の1の生徒は泳げなかった。私の分隊の生徒も遠泳で死んだ。
日々の生活は、時間に厳格で、冬、寒くても4時半には起きていた。起床ラッパの鳴る前に、すべての準備をしていなければ間に合わない。
航海科と機関科の対立のようなものもあった。そうした中で、航海科は特にリベラルな人が多かった。しかし、現実は軍隊規律そのままで、理想との落差がありすぎたようだ。だから、おだやかなリベラルな先生とは一体化していったようだ。
文科系の授業や信号教練などは楽しくよく勉強しろと言われた。卒業すれば武装していない輸送船に乗らなければならないので、「8月15日」は助かったと思った」。
なお、当時の高等商船学校の生活記録としては、川崎景章著・折戸日記(1980年)が最も詳しいが、残念ながら非売品である。

