マッカーサーとその後
2006年 03月 08日
「勝者とその政策にたいする民衆の反応は、・・・誰も予測できなかったほど積極的であった。このことは、マッカーサー元帥個人に対して、また一般的にはGHQに対して日本人が見せた態度のなかに劇的に現われた。あらゆる階層の日本人が、それまで天皇にしか抱かなかった熱狂をもって、この最高司令官を受け入れ、ごく最近まで日本軍の指導者に示してきた敬意と服従を、GHQに向けるようになったのである。こうした行動様式は、「民主主義」とは新しい流行語にすぎず、古い日本的な従順さの上に新しい衣装をまとっただけではないかという懸念を裏づけるように思われた」(上巻285頁)。
「マッカーサーは1951年4月16日、日本を離れ合衆国に向かったが、その様子はあたかも英雄の旅立ちであった。吉田首相はマッカーサーを訪問して元帥の偉大な貢献に感謝し、・・・天皇も、マッカーサーが公式の地位を失った以上、マッカーサーの方から挨拶にくるべきであるとする宮内庁の高官の助言を振り切って、みずから元帥の住居を訪ね、最後の心のこもった挨拶をした」(下巻373頁)。
「マッカーサーは、4月19日の聴聞会で、・・・日本人は、近代文明の尺度で測れば、12歳の少年といったところ(like a boy of twelve)でしょうと語った。・・・この瞬間から、かつての最高司令官は人々の記憶から排除されはじめた。もはや、マッカーサーの銅像は建たないことになり、「名誉都民」の話も決して具体化しなかった」(下巻374頁以下)。
こうして、この老兵は日本人の意識から消え去った。しかしダワーは、この12歳発言こそ、日本が新しく出来た軍隊を含めたすべてにおいて、合衆国の保護国(a client state)であることを示唆するものであったというのである。