天皇裕仁の退位の問題
2006年 03月 03日
「もし占領当局が裕仁の退位を促す方針をとっていたなら、それを妨げるような障害は何も存在しなかったことは明らかである。そのことは天皇側近にもわかっていた。それがどんなに悲しいことでも、人々は敗戦を受け入れた時と同じように、あっさりと天皇退位の発表を受け入れたであろう。(下巻67頁)。
「A級戦犯への裁判が正式に始まる46年3月18日から4月8日まで、天皇は自らの統治下における主要な政策決定について、側近たちに合計8時間もの「独白」を行った。この回想は、天皇の戦争責任をけっして認めていなかった」(下巻71頁)。
「1948年、東京裁判の判決がまもなく言い渡される頃、天皇の道義的責任の問題にふたたび火がついた。・・・しかし天皇は、11月12日付の極秘のメッセージで、マッカーサーを安心させた。自分は新たな決意をもって、日本の国家再建のため、世界平和の推進のために、国民と力を合わせて働くつもりであると、最高指令官に告げたのである」(下巻73,75頁)。
「それから3年半を経て占領は終結したが、その時天皇は、・・・木戸が獄中から天皇に送った忠告にしたがって「敗戦」の責任を負うべきであった。しかしその瞬間は来て、たちまち去った。今回は、裕仁のもう一人の自我であるマッカーサーもいなかった。・・・天皇の「お言葉」の原案には「私は敗戦の責任を深く国民に詫びる」との表現が含まれていたにもかかわらず、在位の意向が示されただけで、個人的な戦争責任には一言も触れられていなかった」(下巻75-76頁)。
その後も天皇は、1975年に、「広い視野からみれば、戦前と戦後で変化があったとは私は思いません」と述べて、1989年まで生き延び君臨しつづけたが、「この事実じたい、戦前と戦後で変化はないという天皇の言葉を証明するものではなかっただろうか」(下巻384頁)といわれている。私自身も、依然として、昭和天皇の戦争責任にこだわりつづけたいと思う。

