2006年1月9日
2006年 01月 09日
大正15年は12月25日までしかなく、昭和元年は12月26日から31日までしかなかったので、昭和2年1月9日というのは、昭和の時代が始まったばかりの頃であった。私は、滋賀県の最北端の余呉村という片田舎に生まれたが、母によるとその年はことのほか雪が深く、しかもかなり難産であったらしい。次男であるのに「研一」という名がなぜついたのか(長男は「恭三」という)は、とうとう親からも聞き逃してしまった。ただ、名前に「研」の字がついたのは、研究を職とするようになったことと関係があるようで、嬉しい気がする。
父は、敗戦直後の昭和22年4月4日、心臓疾患のため、55歳の若さで亡くなったが、当時私は旧制高校の2年生であった。母はその後約30年間苦労した末に昭和54年12月22日、脳出血のため、77歳で亡くなったが、当時私は在外研究のためワルシャワにいた。親の看病もできなかったことに悔いが残っているが、その私自身がいつの間にかもう親の年齢を越えてしまっていることにあらためて気づかされることになった。
問題は、命のある限り、今後をどのように生きていくのかという点にある。幸い、私には研究活動の余地がまだ残されているので、それを続ける以外に方法はなさそうである。この道には際限がなく、繰り返すなかで日々新しい発見があるので、やめるわけにはにいかないということなのかもしれない。今日の午後は、東京で「堀越事件」の弁護団との打ち合わせがあり、13日までに「意見書(その2)」を書き上げる約束をして、今年の初仕事を引き受けることになった。

