戒能通孝氏の人事院規則論
2005年 11月 13日
「昭和24年9月17日附けで制定された人事院規則によると、憲法は表現の自由を保障しはするけれども、自由に意見を表明した人を投獄、罰金、免職の処分に附する自由を認めることに決めてしまった。・・・・・これは全く恐ろしいことであり、憲法を5年だけ逆転させたものである」。
「休日に共産党の議員候補者のために選挙運度の手伝いをしたからといって・・・・彼は自己の職務に忠実であり、郵便物の配達を機械のように正確に行うであろうなら、模範的公務員として賞めてもらうことができるであろう。雇主としての政府が彼に対して要求できるのは、まさにそれだけのことである。彼を雇い入れたから、人格的服従を要求できると思うのは、むしろ人買的思想に外ならない」。
「高級官僚は政府の従属者であって、政府から独立の人格を持つという余地はあまりない。・・・・しかし高級官僚の従属者として、機械的な事務補助者として配属された公務員達は、本来自己の生活と勤務とが、はっきり分かれる立場に立っている。・・・・彼は自己の機械的な勤務内容を果たした後、人間に立ちかえる。高級官僚は常に官僚にすぎないのであるが、人間機械は機械であるとともに人である。彼は自己の売却した労働時間を終えた後、自己を幸福な人間たらしめるには、いかにすべきか考えねばならない。彼はそこで政治活動ができるだろうし、またすることが人間の権利であり義務である」。
50年以上も居座り続けている「人事院規則」の制定時の思想のルーツを改めて想起することの必要性を痛感する。とくに高級公務員と下級公務員を区別する視点が重要だと思われる。

