冤罪者に対する国家賠償責任
2010年 01月 19日
戦前の昭和5年当時、冤罪者国家賠償法案の国会提出が司法省の省題として決定されたと伝えられる状況の下で、小野博士はそれが多年の懸案たる立法なので、たとえ不十分なものであっても、ともかく実現されることを切望してやまないと訴えられていました。
小野博士が事態を憂慮されたのは、立法に反対する理由として、大蔵省が財政上の負担をあげるほか、当時の伝統的な法律見解もまた、国家の行為は法律上無責任であるから、司法権の行使が法規に従う限り合法であり、さらに故意または過失もない限り損害賠償責任はないという見解をなお墨守していたからです。
小野博士は、これに対して、冤罪者に対する国家賠償の制度が必要なのは、刑事司法がほとんど必然的にもたらす不当な結果に対して救済を与えなければならない現実に根ざすものであるとして、大正15年の刑事統計をあげ、確定判決があったあと「再審」によって無罪または免訴となった事件が9件もあったという点など、具体的な数字をあげて、誤判や不当起訴が現実に行われているとした後、「罪なきに拘らず誤って有罪の判決に依り刑を執行された者に対しては勿論、誤って起訴され、ことに未決勾留を受けた者に対して、これに因り生じたる損害を為すことは、国家的に組織された社会そのものの責任でなければならぬ」と論じられたのです。
しかし、結果的には、小野博士の説得的な理論的営為にもかかわらず、冤罪者に対する国家賠償法案は成立が見送られ、「刑事補償法」の方は昭和6年に成立したものの、「国家賠償法」が成立したのは、戦後の昭和22年でした。戦前の抜き難い伝統的見解に対する小野博士の先見の明を賞賛すべきでしょう。

