私の戦前体験
2005年 03月 30日
私は、日本軍の敗戦を清水高等商船学校2年生(19歳)の8月15日に、清水の海岸で迎えました。予備役ですが、海軍の兵籍に編入されており、もう半年も経てば海軍予備少尉として輸送船に乗船して南方に派遣され、命を失っていた可能性があります。
太平洋戦争(大東亜戦争と呼ばれた)が開始された1940年には、旧制中学の3年生(14歳)で、ハワイ沖の開戦の映像を体育館で見た記憶があります。所属していた野球部も解散となり、文科系の徴兵猶予も撤廃される中で、本当に「やむを得ず」予備役の高等商船学校に入学することにしました。東京と神戸にあった高等商船学校が清水に統合され、全く未知の清水に入学しました(17歳)。しかし、実は1メートルも泳げず、海は怖かったのです。
1944年4月から1945年8月までの期間、清水で海軍式の猛訓練をうけましたが、逃亡者も出るなかで、よく耐えられたものと思います。しかし、海軍の方が陸軍よりもややリベラルで、しかも商船学校は予備役なので、救われたところもあります。
広島の原爆については、新型爆弾であるとしか知らされず、昼夜を問わない空襲や艦砲射撃に対しては、真夏に白い毛布をかぶって防空壕に避難する以外には、もはや対抗する手段もなく、最後は海岸に「蛸壺」を掘って、上陸する敵の船に体当たりする「自爆」の訓練をやらされていたのです。
1945年8月15日は、この無謀な戦争が終結した日で、終生忘れることはできません。みんな「ようやく助かった」と思ったのです。もう二度と戦争をしないという誓いこそ、戦争を経験した者の一人として、守り伝えていきたいと思います。