冤罪を見抜ぬこうとする姿勢
2009年 08月 16日
その控訴審は、実質的な審理を一切することなく、8月7日に判決を言い渡しましたが、案の定、原審の有罪判決を維持し、被告・弁護側の控訴を棄却するというものでした。その判決文が送られてきましたので、読んでいますが、従来からの型にはまった控訴棄却判決の手法を踏襲したもので、裁判所としては、もう手慣れたものだという印象を受けました。それは、検察官の立証の不十分さをカバーする形で有罪とした原判決をそのまま維持することを前提にして、被告・弁護側の「詳細な控訴理由」には極めて冷たく、最初から理由なしという結論を導くための論理を探して、これを簡潔かつ無難に記述したものにすぎないというのが率直な感想です。
最大の問題は、有罪の証拠と無罪の証拠とが拮抗するような「否認事件」であるにもかかわらず、判決の中に「悩みぬいた」痕跡を発見することができないという点にあります。本件では、警察・検察の初動捜査がきわめてずさんで、重要な証拠物であるバイクも早々と処分してしまい、後続車の同乗者の1人の「目撃証言」があるだけで、検察官は事故現場の科学鑑定すら申請しないという消極姿勢が目に見えているにもかかわらず、裁判所はむしろその欠陥を意識的に見過ごしながら、被告人に不利な側面には極めてきびしい姿勢を示すことによって、有罪の心証を維持したものというほかありません。
そこには、「冤罪を見抜こうという姿勢」が全く感じられないのです。そしてそれが、「足利事件」のような冤罪を生み出す共通の土俵になっているように思われます。