人気ブログランキング | 話題のタグを見る

最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

論語物語

 最近、下村湖人著『論語物語』(講談社文庫)を読む機会がありました。専門書以外はほとんど読まなくなっていましたので、新鮮な感覚を憶えました。
 「論語」は、戦前の旧制中学の時代に「漢文」という科目があり、そこで論語や孟子などを学んだという古い記憶がありますが、その後はすっかり遠ざかっていました。いま「論語」そのものを読むのは大変ですが、この『論語物語』は、作家で社会教育家でもある「下村湖人」氏が、戦前の昭和13年に出版した歴史的な名著であり、2千年以上も経た「論語」の章句を自由自在に使って、「論語」で養われた自分の思想を「物語」の形式で構成したもので、孔子とその弟子達が、古い衣を脱ぎ捨てて、現代に躍りだすという光景が、みずみずしい現代語で、たんねんに描きあげられていますので、現代語で楽に読むことができます。
 ただし、各章の前後には、「論語」の引用があり、注釈がついていますので、難解な古い文語体の名文やことわざを拾い読みすることもできます。たとえば、「子いわく、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れずと」、「子いわく、朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なりと」などなど。
 以下は、子が親を訴えた事例に関する箇所の引用です。「法律も法律なるがゆえに正しいのではなく、それが人間と人間との関係を、愛に満ちたものにすることができる限りにおいて、正しいのです。ことに親子の愛は愛の中の愛であり、人間界のいっさいのよきものを生み出す大本なのです。それを法律の名によって、平気で蹂躙することを許すような国に、正しい道が行われる道理はありません」。これは、孔子が親族相隠を例に、厳罰主義を戒めたものです。
# by nakayama_kenichi | 2008-08-23 16:37

インドの見識

 今は、テレビも新聞も、北京オリンピック一色で、連日の猛暑のような過熱状態にあります。私も、時々はテレビを見ますが、個人の技を競うというよりも、国別のスポーツナショナリズムの雰囲気が、戦前から変わっていないように思われてなりません。オリンピックには参加することに意義があり、スポーツによる国際的な友好を深めるという本来の趣旨よりも、記録とメダルの数を競い合う大国間の熾烈な競争の場に化しているのが現実の姿で、選手は、国威発揚のチャンピオンとしての役割を担わされているといってもよい状態にあります。
 その中にあって、インドがその流れに抗するかのような独自の道を歩んでいるという記事が注目を惹きました。新聞(朝日2008年8月13日)によりますと、中国の隣国である大国インドは、グローバル経済では主役級に躍り出たものの、オリンピックの舞台ではなんとも影がうすく、今回も、インドは金が一個のみにとどまっています。
 そして、この点について、在中国インド大使館の幹部は、「わが国には選手を商品に、スポーツをビジネスとする米国式資本主義もないし、他方では中国のように優秀選手を武器とし、国威発揚を目指す社会主義の発想もない」と語ったとのことです。
 しかし一方、中国側からみますと、「インドのスポーツ振興関係予算は中国の8分の1以下であり、プロ化が遅れて優秀な成績を上げても収入に結びつかないので、競技選手を目指す青少年はなかなか生れないだろう」ともいわれているのです。
 私自身は、インドの見識を評価したいところですが、オリンピックはどうあるべきなのか、果して日本はどうすべきなのか、考えさせられる問題です。
# by nakayama_kenichi | 2008-08-20 18:07

101歳の誕生日

 昨年のブログに家内の母の100歳の誕生日のことを書いてから、また1年が過ぎました。
今年の8月19日は、101歳の誕生日に当たります。無事に1年を経過して,またひとつ長寿の更新となったことを、まずは喜びたいと思います。
 実は、8月の始めころ、一時容態が悪化し、食べ物も水分も口を通らず、点滴の連続という緊急事態が発生し、この暑い夏を越すのは難しいのではないかという医師の判断もあって、心配していたのですが、結果的には、これまでにも見られたように、しばらくすると、また元の状態にまで挽回して安定するという経過が、今回も見られました。その「底力」には驚かされます。
 昨年以来、意識はかなり混濁して、人の見分けがつかなくなり、ものも言わなくなりましたが、しかし、不思議なことにスタフとは意思疎通ができるといわれ、意識的に目を開いたり、無理に食物や飲み物を口にもっていっても、嫌なときはかたく口を閉ざし、意思表示はできる状態です。ものは言わないが、意識は保たれているのはないかというのがスタフの方々の考え方で、そのコミュニケーションの努力には頭が下がるものがあります。
 また、半身不随になって車椅子でもなかなか体の安定は難しいのですが、右手はよく動き、またその力はまだしっかりしたもので、往年の体力の強さを感じ取ることができます。
 今日も、特養ホームでは、午後からささやかな誕生祝いの会を開いて下さることになっていますので、私もケーキを持って行くことにしていますが、おばあちゃんの好きな「たこ焼き」も準備して下さると聞きました。親切なスタフに囲まれて、娘(亡妻)の分も生きてほしいと念願するのみです。
 
101歳の誕生日_c0067324_1057826.jpg

# by nakayama_kenichi | 2008-08-19 09:30

裁判員制度の危うさ

 いわゆる裁判員制度は、すでに5年前の国会で可決成立しており、2009年5月から施行されることになっています。そして、模擬裁判などが各地で行われ、最高裁判所も法務省も新しい制度の実施要領の作成に熱心で、国民に対する広報活動も積極的に行われています。そのために、かなり多くの国費(税金)が使われているのです。
 しかし、それにもかかわらず、弁護士会の内部には反対論や延期論が台頭しているほか、最近では、社民党が実施の延期を含む見直しを求め、共産党にも実施の延期に同調する動きがあり、とうとう民主党の小沢代表も政権をとったら裁判員制度を見直す意向を固めたといわれるなど、政界レベルでも、1年後の施行にとって雲行きが怪しくなってきた感があります。
 この制度の導入にとって最大の問題は、裁判員制度を担うべき国民の間に依然として賛成論が少ないことであり、国民はもっと卑近な国民生活の先行きに、より大きな関心を示しているという切実な状況があるからでしょう。
 この問題については、元検察官の河上和雄氏ですらも、「裁判員制度は今からでも廃止できる」と公言しています(雑誌WEDGE,2008年8月号104頁以下)。そこでは、「”天下の悪法“裁判員制度が来年5月21日に施行される。一般市民が裁判に参加することの違憲性や、殺人等の重大事件だけになぜ裁判員が参加するのかなど、多くの問題点が議論されないまま強行されようとしている。世論調査でもこの制度は支持されていないのは明らかだ。今、政治家・国民が声を上げればこの制度は廃止に追い込める」と明言されています。状況はなお予断を許しませんが、私自身もこの問題に関する限り、同じ意見です。
# by nakayama_kenichi | 2008-08-17 12:15

8月15日

 今年も、8月15日を迎えましたが、昨年も一昨年も書きましたように、炎天下で、年々暑さが厳しくなり、今年は猛暑と呼ばれています。異常気象も、今や異常ではなくなりつつあります。
 私自身は、戦争経験者の世代ですので、1945年(昭和20年)8月15日のことは、生涯忘れることはできないでしょう。毎年8月15日が来ると、あの日、長い戦争がようやく終わった日、海軍に編入された清水高等商船学校の三保の松原の校庭で「玉音放送」を聞いた瞬間とその後の数分間の凝縮した思いがよみがえってきます。それは、今から63年前の19歳当時の熱い晴天の日の出来事でした。
 今日は、当日ほとんど聞き取れなかった「終戦の詔勅(玉音放送)」の全文をコピーし、改めて読んでみました。しかし、そこに書かれていたのは、今次の戦争が自国の自存と東亜の安定を目的としたもので、他国の主権や領土を侵すような侵略戦争ではないこと、敵が残虐な爆弾を使用したので交戦を継続するとわが民族の滅亡を招来するおそれがあるので、共同宣言に応じるに至ったこと、日本帝国とともに東亜の解放に協力した諸盟邦に遺憾の意を表した上で、帝国臣民で戦陣に斃れた者とその遺族に思いを致し、今後帝国が受けるべき苦難は尋常なものではないけれども、堪へ難きを堪え忍び難きを忍んで、万世のために太平を開こうとすること、朕は国体を護持し得て、忠良なる臣民とともに総力をあげて将来の建設にあたり、誓って国体の精華を発揚すべきこと、などを趣旨としたものです。
 この機会に、一読をお勧めしますが、私としては、戦争に対する反省が見られず、かえってわが皇祖皇宗の「国体」の護持が繰り返し強調されているのが、気になるところでした。
 
# by nakayama_kenichi | 2008-08-15 13:53