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最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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千葉法相の死刑執行命令

 7月28日、千葉景子法務大臣が、2名の死刑執行を命じ、同時に執行したと発表したことが報じられました。千葉法相に対しては、先の公訴時効の廃止・延長問題への対応(全く慎重さを欠いた安易な決定)から見ても、もう何らの積極的な改革の実行も期待していませんでしたが、今回の措置は、自ら死刑廃止議員連盟に所属し、(死刑の廃止を志向するという)自己の信条とも矛盾する行為に及んだという点からも、なぜこの時期にあえて死刑執行命令という「重い決断」に踏み切らざるを得なかったのかという疑問を払拭できないものがあります。
 落選議員であるという弱点を自覚するのなら、法相を辞職するのが筋であり、死刑の執行への立会いや刑場の公開によって死刑の問題性を喚起することは、死刑の執行命令を下すこととは別の次元のことで、これをセットして評価することにも疑問があります。
 また、法務省内に死刑問題の勉強会を作るという案にも、安易に賛成するわけにはいきません。それは、わが国の法務省がこれまで死刑問題に対してとってきた頑なな態度を改めさせるという見通しも保障もうかがえないからです。外部の有識者からも幅広い意見を聞くといわれていますが、法務省当局が人選し主催する検討会では、最初から決定的な限界があります。かえってそれは、死刑の廃止を求める国際世論に対する法務省からの言い訳に利用されるおそれさえあると思われます。
 大事なのは、死刑廃止の方向に一歩でも前進させようとする法務大臣の強い決断にあり、それを生かすためには、法務省内の勉強会ではなく、むしろ法務省がオブザーバーとなるような形での独立の検討委員会を設けるべきでしょう。イギリスの王立委員会やアメリカの大統領委員会のようなものが参考になると思います。
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by nakayama_kenichi | 2010-07-31 20:20

非核三原則の危機

 7月27日の朝日新聞朝刊には、第1面トップに、「非核三原則見直し提言」とあり、新安保懇報告書案が、武器輸出に言及し、部隊離島に重点をおくという骨子が示され、さらに4面には、「中国・北朝鮮を警戒」し、米軍補完を求めるともに、潜水艦増強は合理的選択であり、PKO5原則は時代に適応できていないという報告書の趣旨がかなりくわしく解説されています。
 「非核三原則」とは、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という意味で、1967年に当時の佐藤栄作首相が、国会答弁の中で、わが国の『国是』として明言して以来、公式に承認されてきたものです。ただし、「持ち込ませず」の点については、かつてから在日米軍基地へのアメリカの核登載空母の寄航をめぐって問題があり、最近になって「密約」のあったことが明らかになったばかりです。
 報告書は、この「密約」を非難するどころか、むしろ非核三原則の1つが骨抜きになっている実態を容認し、現実の政策をこれに合わせるべきだとするもので、武器禁輸政策の見直しを含めて、対米依存の安全保障政策を転換し、日本の自衛隊が今よりも積極的に関わることを容認する「日米同盟」強化案を積極的に打ち出したもので、「改憲論」につながるものです。
 政府が直ちにこの提言を受け入れる可能性は小さいといわれていますが、不思議なのはマスコミの対応です。この問題を大きく報じた朝日新聞は、「世界で唯一の被爆国の『国是』を変えようとする動きには、世論の強い反発は必死だ」といいながら、批判や反発の意見は全く掲載されず、わずかに当日夕刊の「素粒子」欄に、「首相の私的諮問機関が『持ちこませず』原則の見直しを提言。非核の願いはどこ吹く風のよう」とあるのみ。翌日の朝刊以降は、「社説」を含めて、関連記事は全く見当たりません。「世論の強い反発」を敏感に代弁し、8月6日を前に、「核を落とした国の『核の傘』に頼る被爆国」の矛盾をこそ、追及し続けてほしいものです。
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by nakayama_kenichi | 2010-07-29 09:03

文楽座で行方不明

 今回もまた、大阪の石川弁護士のお誘いで、7月20日(火)に大阪日本橋の国立文楽劇場で人形浄瑠璃を鑑賞する機会に恵まれました。これまで全く縁のなかった日本の古典芸能に接する機会を引き続き与えて頂いたご厚意に感謝する次第です。
  当日は、平成22年夏休み文楽特別公演中で、出し物は「第2部 名作劇場 夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」でした。例によって、何段階かに場面が分かれ、語り手と三味線のペアが交代し、正面の舞台にはその語り口に合わせるように人形師に操れた人形が、その息づかいまでわかるくらいに、まるで生きているように動く動作が観客を魅了するという独特の雰囲気に包まれました。
  浄瑠璃の語り口は、舞台の上部に文字化され、イヤホーンで物語のあらすじを聞くという手助けがあるため、分かりやすいはずですが、今回の「夏祭浪花鑑」には登場人物が多くて関係が分かりにくく、その筋書きを理解するのに苦労しました。しかも、午後2時から始まり、休憩を挟んで、終わったのが午後6時近く、約4時間に及ぶ長丁場でした。
  石川さんは夜の部も見るといわれて別れましたが、それからが大変で、会館内で夕食を済ませまたものの、携帯電話を忘れてきたことに気付き、大津のマンションの食堂の予約を取り消すことができず、食堂に現れない私の所在を探すために、管理事務所は大阪の息子のところまで連絡するというハプニングが生じたのです。何も知らずに9時前に帰宅した私は、息子からのメールに驚き、管理事務所にも連絡して謝罪しました。
  当日は、猛烈な暑さだったことも加わり、疲労困憊のl日でしたが、それにしても、携帯電話を忘れたことを身にしみて反省するとともに、行方不明者として探して下さった入居者や管理事務所の方々のご配慮に心から感謝したいと思います。
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                   団七九郎兵衛・紺木綿荒縞浴衣
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by nakayama_kenichi | 2010-07-26 08:48

刑法読書会500回

 7月3日(土)に「刑法読書会」の例会が、立命館大学の2条キャンパスで行われましたが、これが500回目に当たるとの報告がありました。
 刑法読書会については、このブログでも紹介したことがあると思いますが、関西の刑事法関係の月例研究会(毎月第1土曜日の午後)の一つとして、私自身にとってもっとも身近な研究会です。私はその出発点となった第1回以来、(在外研究期間を除き)ほとんど欠かさず出席してきたのですが、それが、もう500回を数えるというのですから、驚きです。
 刑法読書会の研究活動については、私自身が昭和43年(1968年)当時、法律雑誌に紹介したことがありますが(法律時報、昭和43年3月号)、ここでは、改めてその発端と由来を回顧しておきたいと思います。
 創立は、昭和30年(1955年)の9月となっていますので、もう55年も前のことです。この研究会は、戦後間もない頃、立命館大学に復職された佐伯千仭先生が京都大学の平場安治、宮内裕両先生とご相談の上で、当時の若い助手や院生を集めて、ドイツを中心とした外国文献の「読書」会を提案し実行されたことに由来します。当初の会員は、3先生を含めて12名で、第1期生はみな昭和一桁時代の助手と院生でした。
 私は、昭和28年(1953年)に大学を卒業して、旧制の大學院に進み、昭和30年8月には助手になっていましたので、刑法読書会の1期生としては最年長でした。しかし、実際には、研究者としての道を歩み始めたばかりの頃で、結核のあとがまだ尾を引いていて、健康にも不安が残っており、ほんとうにあぶなかしい出発点であったと回顧しています。
 刑法読書会との縁は、その後も深まるばかりで、3先生の学恩を忘れることなく、500回を越えた今も、若い会員の研究報告を聞くのを楽しみに、できるだけ出席したいと念願しています。
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by nakayama_kenichi | 2010-07-23 08:43
 後藤氏の紹介によりますと、植木枝盛は、明治初期の民権政党であった自由党の幹部であり、庶民に訴える有力な手段として、演説会、論説、随筆などとともに、自作の「民権数え唄」や「民権田舎唄」などを活用し、主に芸者たちへ広めたという民権踊りもあったといわれています。その一部を紹介しておきます。
 1.「民権数え唄」(植木枝盛作詞、1877年=明治10年11月以前、20番まで)
 一つとせ、人の上には人はなき、権利にははかりはないからは、この人じゃもの
 三つとせ、民権自由の世の中に、まださめない人がいる、このあわれさよ
 六つとせ、昔思えばあめりかの、独立なしたるむしろ旗、このいさましや
 十三とせ、栄へ行く世の基本は、民の自由にあるぞいな、この知らないか
 十四とせ、四民ひとつの世の中に、とぼけ華族のかえり咲、このめずらしや
 十六とせ、牢屋の中のうきかん苦、ほれた自由のためなれば、このいとやせん
 2.民権田舎歌(植木枝盛『民権自由論』付録、1879年=明治12年4月刊)
 自由なるぞや人間(にんげん)のからだ/ 頭も足も備わりて/ 心の霊妙万物(ばんもつ)に越え/ 心と身とが倶はるは/ (ひとつ)の天地を云ふもよし/ 自分一人は一人で立つよ/ 何も不足はなひものぞいの/ そこらで人間を自由と申す/ 自由じゃ自由じゃ人間は自由/ 食(くろ)ふも自由に生きるも自由/ 心は思ひ口は言ひ/ 骸(からだ)は動き足(あ)しや走る/ 視たり聞たり皆自由/ 自由にするのが我権利/ 自由の権利は誰も持つ/ 権利張れよや国の人/ 自由は天の賜物じゃ/ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 なお、植木枝盛は36歳の若さで亡くなっていますが、遺稿集の中に、『未来が 其の胸中に在る者 之を青年と云う』という言葉があります。
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by nakayama_kenichi | 2010-07-20 10:46

植木枝盛の憲法草案

 友人の日本法制史家・後藤正人氏(和歌山大学名誉教授)から、最近送ってもらった研究資料の中に、鈴木安蔵(1904-1983年)の「憲法研究会」とともに、さらに古い植木枝盛(1857-1892年)の「憲法草案」についても紹介されたものがあり、興味を惹かれましたので、注目すべき点をいくつか指摘して、一般の参考に供したいと思います。
 1.鈴木安蔵は、明治、大正、昭和時代を生き抜いた著名な憲法学者であり、大正デモクラシーの時代思想を貫いたのに対して、植木枝盛は、明治前の安政年間から明治前期の時代の政治思想家であり、明治初期の自由民権運動の代表的な論客である。
 2.鈴木安蔵の「憲法研究会」による「憲法改正要綱」(1945年)は、戦争と軍隊をいっさい持たず、平和と民主主義と国際連帯をうたい、それがマッカーサー総司令部によって高く評価されていたことは、日本国憲法がアメリカの「押し付け憲法」ではなかったことを示すものである。
 3.植木枝盛は、明治14年に「東洋大国国憲按」(202条)を公表したが、それは当時の憲法草案の中でも、もっとも詳しい人権規定(生存権など)を含む急進的なものであった。死刑廃止の思想や陪審裁判を受ける権利のほか、国際連合への示唆も含まれていた。
 4.鈴木安蔵が引用した植木枝盛の憲法草案のうち、出版法によって1933年に削除され、「伏字」になっていたのは、抵抗権と革命権に関する以下の3ヶ条である。第70条「政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルコトヲ得」第71条「政府官吏圧制ヲ為ストキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルコトヲ得、政府威力ヲ以テ壇恣暴虐ヲ逞フスルトキハ日本人民ハ兵器ヲ以テ之ニ抗スルことを得」第72条「政府恣ニ国憲ニ背き壇ニ人民ノ自由権ヲ残害シ建国ノ旨趣ヲ妨グルトキハ日本国民ハ之ヲ覆滅シ新政府ヲ建設スルコトヲ得」。
 そのほか、植木枝盛が庶民に訴える有力な手段としていた「民権はやり唄」、「民権田舎歌」、「ダイナマイト節」、「オッぺケペー節」なども紹介されています。 
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by nakayama_kenichi | 2010-07-17 09:10

参議院選挙雑感

 7月11日(日)は参議院選挙の投票日で、近くの投票所まで投票に出かけました。憲法は、公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障するとし、すべての選挙における投票の秘密を侵してはならないと定めています(15条)。そして、たしかに国民には投票する自由と秘密を守られるという保障があります。
 しかし、「公職選挙法」によりますと、公認の候補者側の選挙運動の期間や方法が細かく規制され、候補者の個人演説会や街頭演説会のほかは、かろうじて規制から免れている選挙カーによる「連呼行為」だけが許容されていますので、一般市民は、かえってこの連呼行為の繰り返しに悩まされることになります。
 その上、一般市民の手による自主的な選挙運動の方が全く禁止されていますので、「公営選挙」の名のもとでは、主権者の市民には選挙運動の自由がなく、ただ選挙公報とマスコミからの情報の「受け手」に過ぎないという状況が、もうすっかり定着してしまっているのです。「労組」も集票マシン化し、その影響力も落ちています。
 一方、マスコミも、市民の立場から、選挙の争点と方向性を示すという本来の使命よりも、むしろ選挙後のいわゆる「出口調査」によって、いかに早く正確に開票結果を公表するかという競争に血道をあげるという報道の「劇場化」が目につきました。
  なお、今回の選挙結果については、民主党の敗北によって、長年しみついた自民党政治からようやく脱却したはずの「政権交代」の意義と方向性が失われるおそれがあるのではないか、民主党の敗北の原因は消費税論議の前提となるべき「事業仕分け」(格差是正策)への期待の低下にあったのではないか、いわゆる「革新政党」(社民党や共産党)の低迷が続いているのは、とくに若い世代(大学生を含む)の保守化が進んでいるといわれていることの現われではないか、といった感想を持ちました。
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by nakayama_kenichi | 2010-07-14 09:51
 7月9日(金)の午前7時過ぎの朝食時に、いつも必ず来られて定位置に座られるご婦人がお見えにならず、おかしいと思った知人が15階のお部屋まで伺っても返答なしということで、まさかという悪い予感が走りました。
 急いで、救急車を呼び、ご親族に連絡してお部屋まで来て頂いて、鍵を開けたら、そのご婦人はお風呂場で倒れておられ、もう手の打ちようがなかったとのことです。救急隊に代わって、警察官が現れ、事後処置が始まりましたが、辺りの入居者は、ただ呆然と立ちつくすのみという虚脱感におそわれました。
 このご婦人は88歳でも、まだお元気で、前夜の夕食後は、午後7時から9時まで2階で行われた「名画鑑賞会」に出席された後、談笑しながら15階まで上がり、お部屋に入られたとのことで、異変はその後、おそらく入浴時に発生したものと思われます。
 身柄の安全と不時の場合に備えて、各室には、「警告ベル」がいくつか設置されており、浴室にももちろん配備されています。このボタンを押せば、防災センターにつながって、救急車の手配などの緊急の救助体制が作動することになっているのですが、残念ながら「警告ベル」が押せない状態のまま事態が悪化し、最悪の結果になったわけです。
 このご婦人は、典型的な京都女性の代表格ともいうべき京美人で、戦前・戦後の京都の伝統的な学術文化や下町風俗などに詳しいだけでなく、凛とした風格も衰えるとことなく、若かりし日の才色兼備なお姿を想像するに難くないという貴重な存在であっただけに、思いがけない突然の死は惜しみても余りある悲しい出来事でした。
 それにしても、高齢者用マンションにおけるこのような1人ものの悲しい孤独死を繰り返さないために、有効な防止策はないものか、再検討しなければなりません。ただし、個人的な「影」の声としては、自分もそのような形で死にたいと思ったりもしますが・・・・。
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by nakayama_kenichi | 2010-07-11 10:43

保護観察官の定員

 「保護観察」とは、犯罪や非行を行った者に、通常の生活を営ませながら、一定の遵守事項を守るように指導するとともに、必要な指導援護を行うことによって、その改善と更正を図ろうとするもので、それは対象者の身柄を拘束しないで、その更生保護を図ろうという、国が行うべき「社会内処遇」の重要な手段の一つとして位置づけられています。その対象者には、少年院から仮退院を許された者、行刑施設から仮釈放された者、刑の執行猶予に保護観察が付された者などが含まれています(更正保護法48条以下)。
 保護観察の実務は、通常、専門の「保護観察官」と、民間の篤志家である「保護司」の協力体制によって行われています。「保護観察官」は、心理学、教育学、社会学等の更正保護の専門知識を持つ国家公務員ですが、かつてから定員の絶対的な不足が叫ばれており、実際には保護司まかせになるという実情が指摘されてきています。
 そこで、『刑法入門』第3版の改訂作業の機会に、その「定員」を調べてみたのですが、「保護司」の定員は52,500人以内とすぐ分かりましたのに、肝心の「保護観察官」の定員が公式文書を調べても分からず、困りました。第2版(2000年)当時、「718人で、1人当たり約92件」と記述していたのですが、今回大津保護観察所に依頼して本省に聞いてもらい、ようやく2009年現在、管理職を除く定員が881人であることが分かりました。しかし、1人当たりの件数も、歴年の変動も分からないままで、さらに聞いてもらっている有様です。
 最近の裁判員法の下で、執行猶予者に「保護観察」が付く事例が多くなりつつあることを考えますと、「保護観察官」の抜本的な定員増しの必要性を痛感します。なお、「保護司」の方も高齢化が進み、定員割れが続いていることにも、積極的な手当てが必要です。
 それにしても、「保護観察官」の定員さえすぐに分からないという現状と、全国でわずか数百人程度という絶対数の少なさには、改めて考えさせられました。
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by nakayama_kenichi | 2010-07-08 09:52

今は亡き友を偲ぶ会

 私どもの関西の刑法研究者の仲間が、最近2人続いて亡くなりましたので、私が提案して、かつてからの親しい友人による「偲ぶ会」が企画され、7月3日(土)の夕方に開催されました。当日の午後は、昭和30年代のはじめから続いていました月例研究会の「刑法読書会」が500回を数える記念の日に当たり、そのメンバーであったお二人を追憶するのに相応しい日でした。
  「偲ぶ会」には、森井暲(前関西大学教授)さん、上田健二(前同志社大学教授)さんのご遺族のほか、20人を越える親しい友人が、梅雨期の悪天候の中にもかかわらず参加して、故人の冥福を祈るとともに、昔の思い出話をして、ご遺族を慰め、ともに今は亡き共通の友を偲び合うという一体感に包まれました。
  お二人には10歳くらいの年代の差がありましたので、参加者にもそれに相応する年齢差があり、前半は古い世代が、後半は比較的新しい世代の方々が、それぞれ二人の先生との関係を含む話題を披露されましたが、今まで聞いたこともなかった貴重な体験や「エピソード」も含まれていて、故人との人間関係が織り成す出会いや共同体験など、偶然とも思えるような「関わり」がそれぞれの人々に重なり合って存在していることに、改めて驚かされました。
  とくに印象に残りましたのは、森井さんについては、芸人を思わせるような洒脱なユーモアの持ち主であり、学生間の人気投票では常に上位にランクされ、ゼミの志願者も多かったという人間的な魅力ある教授であったこと、一方、上田さんについては、その法哲学の難解な議論のなかに、「人間の尊厳」と「寛容」の精神を求め、これを社会生活でも家庭生活でも徹底して実践し、死ぬまでこれを貫徹されたという悲壮感が伝わってきたことです。
 改めて、研究者の間における「友情」の大切さと、相互間の影響力の大きさを確信し、心に秘めながら別れを惜しみました。
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                2010年7月3日の「偲ぶ会」
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by nakayama_kenichi | 2010-07-05 17:35