最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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8月の回顧

 今日は2009年の8月31日で、明日からは9月の秋に変化します。
 去年のブログを見ましたら、7月29日の参議院選挙で民主党が躍進し、大きな波紋を呼んだことが記録されていますが、今年の8月30日には、衆議院選挙で、自民党が歴史的な大敗を喫し、いよいよ政権交代が実現したことが大きく報じられています。この大きな転換が何をもたらすかは、まだ定かではありませんが、最大の注目に値することだけははっきりしています。
 私自身の生活のレベルでは、まず研究面について、夏休みのために外での研究会がほとんどなく、自宅での仕事に終始しました。「かきいれどき」の収穫としては、やや不満足なものでしたが、新しい「論文集」のゲラをまとめて出版社に送り、医療観察法に関する紹介論文が近々に法律雑誌に掲載される見通しがあるといった程度の成果はありました。今は、小野博士の「日本法理の自覚的展開」に取り組みはじめましたが、戦前の古い文献に埋もれてしまい、なかなか筆が進まない状態です。
 本格的な研究がなかなか進まない状況のなかで、この8月は短文の「ブログ」をかなり多く書きました。行動範囲が次第に狭くなるなかで「テーマ」を探すのには苦心しましたが、最低月10本の線をどこまで続けられるかが今後の課題です。繰り返しの日記風のものになってしまう可能性がありますが、読者の皆さんには、今後もどうかよろしく、お願いします。
 なお、体調の方は、年の割にはまだ元気な方で、在宅の日はほとんど2階のフィットネスルームで足腰の運動を継続しています。また「一日一善」として始めた老婦人のための歩行援助も続けています。ただ、アレルギー体質のためか、とくに夜は上半身がかゆくなることが多く、なかなか治らないので、困っている状態です。
 8月も終りですので、今年の花火大会の写真(受信したもの)を挿入しておきます。
 
 
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by nakayama_kenichi | 2009-08-31 10:41

日本法理の自覚的展開

 これは、東大名誉教授で刑法の大家であった小野清一郎博士(1891-1986)による著名な書物の題名です。大戦中の1942年(昭和17年)2月に有斐閣から初版が刊行されています。
 私は、刑法の研究を始めたころから、刑法思想の歴史に興味がありましたので、われわれの先生にあたる瀧川、小野、牧野、木村、佐伯、団藤などの刑法学の大家の著書を読み、現にこれらの諸大家の刑法思想を比較検討した著書も公刊しています(『刑法の基本思想』成文堂、初版1979年、増補版2003年)。
 そして、戦前から戦後への刑法思想の変遷に関しては、とくに戦後にリベラルな刑法思想を展開された佐伯博士が、戦前の末期には、いわゆる「日本法理」(刑法における日本的伝統の探求)に深く傾倒されていたという事実とその理由を明らかにするために、かなり長い論文を書いたことがあります(「佐伯博士の刑法思想と日本法理」上・中・下、判例時報2013,2015,2017号、2008年)。
 そしてその際、小野博士の「日本法理の自覚的展開」との関係を検討したいと思いながら、果さないままになっていました。この本を手元において、直接かつ丹念に読んで検討する機会がなかったのですが、今回ようやくその実行に着手することになりました。小野博士にずっと前にお会いしたときの緊張感を思い出しながら、できるだけ内在的に、丁寧に内容を紹介することによって、「戦前」をいかに評価すべきかという、いまだ十分に果されていない重要な課題に取り組んでみたいと考えています。
 因みに、当時の佐伯博士は、この本を高く評価し、基本的に共鳴し得るものであると評価されていたことも参考にされてよいでしょう。
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by nakayama_kenichi | 2009-08-27 09:37

波瀾万丈の体験的昭和史

 最近、不思議なご縁で、近くの大津市在住の88歳のご婦人と連絡がとれ、さっそく電話がかかり、ご自分の体験をつづった書物を送って頂きました。それは、堀井湖芳(さかゑ)さんの『羈旅(たび)の想記―がむしゃら婆の体験的昭和史』(2008年2月、株式会社パレード)と題するユニークな書物です。
 これは、著者が83歳の頃から3年をかけて自分がこれまで歩んできた道を実に丹念に記録したものですが、まずはその抜群の記憶力と苦境にめげない「がむしゃらな」パワーが読む人の心を惹きつけます。朝鮮の木浦に生まれ、父母といったん内地に帰った後、満州の大連から新京(長春)に移って終戦を迎え、敗戦後はソ連軍に脅かされながら無蓋車で内地に引き揚げ、その後は夫が死亡したため、1人子をかかえながら寡婦生活のさまざまな苦労を経験し、再婚の後も北海道に渡ってきびしい自然と対決し、最終的に、滋賀県の大津に青山の地を見出すまでの間、家族や親族との相次ぐ別離や、生きて行くための職探しなどの生活苦を体験した有様などが淡々と語られています。
 なかでも注目されるのは、そのような環境に翻弄されそうな中にあっても、著者が書道と画道の初心を忘れず、数々の受賞の対象なった書や絵を描き続けて来られた点で、とくに中国の古い仏画とめずらしい「甲骨文字」(2000年前に使われ、地下に埋没されていた象形文字)が、本書の表紙を飾っているのが印象的です。
 なお、「編集後記」を書かれた息子さん(堀井谷峰氏)の文章も、母を思う味わいのあるもので、とくに、21世紀の人類の課題(戦争、地球環境、食料危機)を解決するにも、狭量な「愛国心」ではなく、国家主義を超えた「人間愛」と「生命愛」を中心に据えるしか道はないと指摘された後、結論的には「母親は父親よりも偉大なり」と述懐されている点に深く共感しました。
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by nakayama_kenichi | 2009-08-25 08:50

終末期医療のルール化

 2006年に起きた富山県の射水市民病院事件では、終末期における人工延命装置(人工呼吸器)の中断による患者の死亡という事実が判明し、各方面に大きな関心を呼びましたが、この事件は、いまなお捜査中で、起訴されるかどうかが注目されています。
 最近、この「終末期医療のルール化」に関する文献を読む機会がありました(日本医事法学会編・年報「医事法学」24、2009年)。私自身も、かつて、安楽死や尊厳死に関する著書を書いたことがありますが(『安楽死と尊厳死』成文堂2000年)、その後の展開状況に注目しました。
 この問題について、一番大きな変化は、とくに救急医療を中心とした臨床医の現場の要望に答えるために、厚生労働省が検討会を立ち上げ、2006年に出た叩き台をもとに、2007年5月には「終末期医療の決定のプロセスに関するガイドライン」を公表したことです。そして、これに呼応するように、2007年9月には日本救急医学会が「救急医療における終末期医療に関するガイドライン」を公表し、さらに2008年2月には日本医師会第X次生命倫理懇談会が「終末期医療に関するガイドラインについて」を相次いで公表しています。
 そこには、この終末期医療の問題を、固い法律ではなく、より柔軟な「ガイドライン」の形で解決しようという姿勢がうかがわれますが、それ自体は妥当だとしましても、各ガイドラン間の相互関係はいまだ明らかとはいえない段階にあります。一方では、これをより具体化して行く必要がありますが、しかし他方では、具体化し過ぎると、それが法律上も許されるという誤解が生じ、検察との摩擦が生じるというジレンマがあります。
 問題の根本には、わが国の社会に「医療不信」が依然として根深いこと、日本医師会の自治・自律機能がきわめて低く、医療倫理が末端まで浸透しにくいことなどの事情があり、これらの基本的な問題から目を離すべきではないことを強調しておきたいと思います。
 
 
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by nakayama_kenichi | 2009-08-23 09:09

先生のお墓(2)

 「わたしたちの大すきな大島先生のお墓は、このさびしい丘の上の墓地にあります。大島先生のお墓は、墓地のかたすみのポプラとアカシアとプラタナスのかげに、しずかに横たわっています。このお墓のできたころは、町の人はだれもこのお墓をかえりみもしませんでした。それほどあわれなみすぼらしいお墓でした。・・・・
   大島先生のお墓には1年たっても2年たっても石碑は立ちませんでした。2坪ほどの大きさの墓地の真ん中に友だちの書いたそまつなぼうぐいが立って、その両側に2本のときわ木が植わっているきりでした。大島先生の友だちは、たいていびんぼうな人たちばかりでしたから、それをかなしんでもどうすることもできませんでした。
   あるとき、わたしは大島先生のお墓へおまいりしたら、だれが持ってきたのか、ほとんどまんまるい形の自然石が1つお墓の真ん中にころがって、そのまわりにひらべったい石が3つ4つおいてありました。わたしはそのまんまるい形の石を見ているうちに、いつか大島先生が黒板へ書かれたまるい形のことを思い出しました。やがてまるい自然石とひらべったい自然石のあいだに雑草がおいしげって、ちょうど大島先生のからだをやわらかい毛皮でつつんででもやろうというように、墓地の上においはびこっていました。草萩の赤い花やすすきの白い穂が雑草のあいだから背のびをして、ここにわたしたちの大すきな大島先生のねむっていることをつげているように思われます。これがわたしの先生のお墓です」。
 その大島先生は、3年で転校され、東京のさびしい下宿屋の一室で肺病でなくなられたのですが、先生の遺言によって、この町の墓地にほうむられることになったと記されています。そこには、古き良き時代の先生と生徒との間の、こころあたたまる師弟関係を垣間見ることができます。私自身も、小学校時代の先生のお墓におまいりしたくなりました。
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by nakayama_kenichi | 2009-08-21 17:59

先生のお墓(1)

 過日、余呉町の旧友に出会った際に、当時の余呉小学校にあった「杉野文庫」の中に、改造社の『現代日本文学全集』33巻に掲載されていた秋田雨雀作の短編の一節があったことを思い出し、そのコピーを送ってもらいました。思い出に残る文章の一部分を紹介しておきます。
 「大島先生がわたしたちの受け持ちになってさいしょの日のことを、いまでもわすれません。大島先生は、教壇に立ってだまって生徒の顔を見ていましたが、いきなり、細い指で白墨をつまんで黒板の上に、大きな円をえがきました。そして、まじめな顔をして、「これなんですか」と生徒にたずねました。すると生徒は、ただわらっていてだれも手をあげませんでした。すると先生はじゅんじゅんにじぶんのちかいところにすわっている生徒から質問してきました。ある生徒は「先生、まるです」と答えました。またある生徒は「先生、お日さまです」と答えました。またある生徒は「先生、お月さまです」と答えました。またある生徒は「先生、かがみです」と答えました。またある生徒は、「先生、おだんごです」と答えました。
   大島先生は、十人ばかりの生徒に、いちいち質問してから、しずかにいいました。「そうです。あなたがたの答えは、みんな本当です。人間は、じぶんの考えていることにいちばん近いもので考えるものです。みんなの考えは、みんなほんとうです」といって、しばらく生徒の顔を見ていましたが、また白墨をつかんで、「これは地球ですよ」と書いて、それきりなにもいわずに読本の授業にかかりました。大島先生は、あのときなぜあんなものを書いて、あんなことをいわれたのか、わたしには、いまでもよくわかりません。しかしわたしは大島先生のことを考えると、どうしてもあのさいしょのことばが思い出されてしかたがありません。わたしたちが大島先生におそわったのは、たった一年でした。しかしこの一年の印象は、わたしたちにはどうしてもわすれられないものでした」。
 
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by nakayama_kenichi | 2009-08-19 09:30
 私自身が弁護団に参加している刑事事件の控訴審の公判に出た際に、裁判官の態度がいかにも形式的で冷たいという感想をもったことは、このブログでも触れました。
 その控訴審は、実質的な審理を一切することなく、8月7日に判決を言い渡しましたが、案の定、原審の有罪判決を維持し、被告・弁護側の控訴を棄却するというものでした。その判決文が送られてきましたので、読んでいますが、従来からの型にはまった控訴棄却判決の手法を踏襲したもので、裁判所としては、もう手慣れたものだという印象を受けました。それは、検察官の立証の不十分さをカバーする形で有罪とした原判決をそのまま維持することを前提にして、被告・弁護側の「詳細な控訴理由」には極めて冷たく、最初から理由なしという結論を導くための論理を探して、これを簡潔かつ無難に記述したものにすぎないというのが率直な感想です。
  最大の問題は、有罪の証拠と無罪の証拠とが拮抗するような「否認事件」であるにもかかわらず、判決の中に「悩みぬいた」痕跡を発見することができないという点にあります。本件では、警察・検察の初動捜査がきわめてずさんで、重要な証拠物であるバイクも早々と処分してしまい、後続車の同乗者の1人の「目撃証言」があるだけで、検察官は事故現場の科学鑑定すら申請しないという消極姿勢が目に見えているにもかかわらず、裁判所はむしろその欠陥を意識的に見過ごしながら、被告人に不利な側面には極めてきびしい姿勢を示すことによって、有罪の心証を維持したものというほかありません。
  そこには、「冤罪を見抜こうという姿勢」が全く感じられないのです。そしてそれが、「足利事件」のような冤罪を生み出す共通の土俵になっているように思われます。
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by nakayama_kenichi | 2009-08-16 11:21

8月15日の真実

 2009年の8月15日になりました。1945年の8月15日から数えて、64年を経過したことになります。私は、当時18歳で、今は82歳になりましたが、もう戦争と戦前の時代を経験した人は少なくなりつつあります。お盆とも重なって、戦没者を追悼する行事は行われていますが、戦争体験は全体としては次第に風化し、「神風が吹く」とさえ信じ込まされた異常な大政翼賛体制の実態は忘れ去られつつあるのが現状です。
 最近の朝日新聞は、「検証 昭和報道」と題して、戦争から敗戦に至る昭和の時代の新聞報道の裏面史を明らかにしようとしていますが、その中でも、1945年8月15日のいわゆる「玉音放送」を聞いた後の宮城広場の模様に関する記事と「写真」を、「8.15朝刊の謎」として描き出しているのが注目されるところです。
 原爆投下から連合国に対する降伏文書の受諾に至る経過についての新聞報道の内容が、軍の強大な圧力の下に、いかにゆがめられて行ったかという事実の検証にも注目すべき重要な問題が含まれていますが、敗戦の日に宮城前広場に集まった人々が宮城に向かって土下座している写真についてまで、「真実」のものは配信されなかった可能性があるというのです。
  実際には、人々は一斉に土下座したわけではなく、かなり雑然としていたが、戦時下の新聞が報じたのは「現実の光景」ではなく「あるべき光景」であり、それは敗戦に際して「民草」がとるべき態度を示したものだったことが明らかにされています(朝日新聞09年8月14日夕刊)。
 戦後になって、「マスコミ」が権力から解放され「報道の自由」を獲得したといわれていますが、本当にそうなのかという検証も必要なように思われます。
 
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by nakayama_kenichi | 2009-08-15 20:14

幸せが現れるとき

 いつも見ている福岡の弁護士さんの本の紹介欄に、アルゼンチンの2人の作家の対話集『御者』(2009年、新曜社刊)の紹介文が出ているのが目にとまり、これは読んで見たいなと思いました。本来ならば自分で読んで確かめてから引用すべきところですが、今のところ、いつ読めるかわかりませんので、完全な「孫引き」であることをお断りして、忘れないうちに、その紹介文のなかから、興味ある内容の一部分を引用しておきます。
 「幸せは、人が自分の望んでいる一つのものごとに対して、最善をつくしていると実感しているときに現れる。人生において何かを試みるとき、極端に常識はずれではなく、夢を持ち、欲深さからではなく、野心からでもなく、自分の資質の発揮を妨げず、他人と分かち合う可能性を出し惜しみせず、夢を達成しようと、できる限りのことをするような状態に直面しているとき、そんなときに幸せは現れるものである」。
 「探検家の幸せは、道を歩み続けること、日々の暮らしの中で何かを見出そうと試みること、活気あふれる人生を歩き、人生に触れ、そして悩むべきときは悩むことだ」。
 以上のほか、人を人間にしたのは「言語」であり、それは他者とのコミュニケーションを目的としたもので、何のためにコミュニケーションをとり合うのか、その理由は愛であるということ、人間は人間にとって狼だといわれるが、狼は人間と比べるとまだ可愛いもので、相手を傷ければ攻撃をやめるが、人間はさらに相手を殺してもまだやめないほど残酷なこと、麻薬依存症に陥った人には愛情が不足しているので、依存症によってその隙間を埋めようとしているのだといった指摘が含まれていて、読む人を惹きつける魅力があると感じました。
 私自身も、「他人と分かち合う可能性を出し惜しみせず、できる限りのことをしたい」と思っています。
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by nakayama_kenichi | 2009-08-14 09:10

旧友の戦争体験

 8月2日、郷里の余呉町まで、恒例の墓参りに出かけました。今年は、兄の初盆でもあり、親族で近くの余呉湖畔の「余呉湖荘」(国民宿舎)まで出かけて昼食を済ませたあと、湖岸に住む旧友のK氏宅を訪問しました。彼とは、余呉小学校、虎姫中学校時代の同級生の関係です。
 昔話に花が咲きましたが、なかでもK氏の戦争体験をつづった記録(滋賀県健康福祉部政策課が県内で巡回展示中の「戦争体験展示会」の資料)は、はじめて拝見するもので、その中には驚くような事実が記載されていました。ただし、われわれの世代は、外地に出征した経験はなく、国内での出来事に限られています。
   K氏は、戦時中の旧制中学時代の軍事教練や、高島郡の饗庭野での連合演習などの模様に触れて、中学校にはみな鉄砲があり、兵器庫があり、いわゆる三八銃を担いで演習をし、匍匐訓練や射撃練習なども、配属将校の監督下で行い、松本部隊(校長の名)と称する分隊編成で活動していたことを、当時の貴重な写真入りで紹介されています。
  そのあたりまでは、私自身も参加して承知していたのですが、K氏が1945年8月11日に現役に入隊する日に膳所駅から乗車し、途中の守山駅で米軍のグラマン機の機銃掃射を受けたときの体験には戦慄を覚えました。乗客は急いで駅前の防空壕に向かったのですが、一杯で溢れ、頭だけを突っ込んだ恰好のまま、機銃掃射にさらされ、K氏のすぐ横の兵隊さんが撃たれて即死し、K氏も弾が脇腹をかすめて傷を負ったというのです。それは、もうすんでのことで死んでいたという危機一髪の体験です。
  戦争末期は、内地にいても危険で、関西では大津の琵琶湖畔から敦賀の日本海に抜けるコースがグラマン機やB29の通り道であったといわれていました。危うく命拾いをした後、すでに戦後60年余を生きぬいたK氏の貴重な戦争体験を無にしてはならないと痛感しました。
 
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by nakayama_kenichi | 2009-08-12 09:57