最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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自分の本を読む

 この国会に臓器移植法の改正案が提案され、衆議院を通過して、これから参議院での審議が始まろうとしています。その帰趨については予断を許しませんが、かつてから関心をもっている問題であるだけに、現行法の成立時の国会審議の状況をさかのぼって検討してみることにし、自分の著書である『臓器移植と脳死』(2001年)の該当部分を改めて読み直して見ました。そして、臓器移植法の立法過程には、それが議員立法であるためか、かなり複雑で不明なところも含まれていますが、今回の改正案との関係を比較しておくことの必要性を痛感しました。
  第1は、最初に国会に上程された法案(1994年4月)が、移植に使用されるための臓器を「死体(脳死体を含む)」から摘出することを認め、その際、本人の意思が不明なときは遺族の書面による承諾で足りるとしていたという点です。それは、今回衆議院を通過した改正案と基本的には同趣旨のものであったのです。
  第2は、しかしそれが国会審議の途中で提案者の側から突如「修正案」(第1次)が出され、「脳死体」からの提供には本人の提供意思が必要であるという要件に変り、それが衆議院を通過した(3分の2の多数)という点です。
  第3は、しかし参議院では、さらに「修正案」(第2次)が出されたのですが、そこでは「脳死体」という表現を「脳死した者の身体」というソフトな表現に変え、脳死移植の場面でのみ脳死状態を「死体」とみなし、移植目的に限定する趣旨をはっきりさせた点です。
  今回の法案は、「脳死した者の身体」という表現を残しつつも、しかし本人の意思表示がなくても遺族の同意で足りるとする最初の案にもどったわけですが、それが参議院の審議でどこまで「修正」されることになるのか、注目しつつ見守っていかなければなりません。
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by nakayama_kenichi | 2009-06-28 10:25

虎姫中学野球部の思い出

 旧制中学のクラス会関係の資料の中に、「わが虎中時代」(古稀記念文集)という小冊子が出てきましたので、なつかしく読み直しています。
 私自身は「虎中時代の私」という文章を書いていますが、そのなかでは、入学当時(昭和14年4月)の印象として、入試には合格したものの、田舎出の自分が優れた級友たちに伍して行けるか心配であったこと、科目では、英語が新しい科目で一番興味があり、地理も歴史も好きだったが、国語では作文が苦手で、数学はやや不得手だったように思うと述懐しています(作文が苦手だったのに、よく物書きの仕事についたものだと思います)。
 一方、体育は、体が小さく臆病だったのですが、兄の影響で「野球部」に入ったのです。体に合うユニフォームがなく、ダブダブの姿で笑われたことを覚えています。しかし、野球部の生活は、体を鍛え忍耐心を養う上で、有益であり、放課後の毎日の練習は苦しかったけれども、学業との両立を図るために、限られた時間を有効に使う要領を人よりも早く身につけるのに役立ったように思うと書いています。
 虎中の野球部の対外試合成績は香ばしいものではなかったのですが、同僚のT君の述懐によりますと、生涯忘れられない試合として、昭和16年夏の滋賀県大会(近江神宮外苑球場)で、強豪の膳所中学を相手に、8回まで2対1でリードし、夕闇迫る中で1点をとられて、惜しくも2対2で引き分けたことがあったことが語り草となっています。
 同僚が毎夏の琵琶湖での水泳訓練をしているのに、私ども野球部員はグランドで汗を流していたのですが、そのことが、中学卒業後、皮肉にも海の学校である高等商船学校に入り、全く泳げないという苦労を味わうことになるとは思いませんでした。
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by nakayama_kenichi | 2009-06-25 21:16
 足利事件では、幸いDNA再鑑定の結果、無期懲役刑に服役中の菅家さんの「無実」が晴れましたが、しかし、なぜ菅家さんが取調べ中に、このような重大の罪の犯行を「自白」していたのかという疑問がどうしても残ります。この冤罪事件については、多くの報道がなされていますが、この重大な疑問点について原因の究明があいまいにされてしまう危惧を覚えます。
  栃木県警本部長が、謝罪の談話だけでなく、直接に菅家さんに会って謝罪したと報じられましたが、長年ご苦労をかけたことを謝罪しただけで、警察が「虚偽の自白」をさせたことについて、具体的に謝罪したわけではありません。むしろ、当時の現場の捜査官たちには取材に応じないようガードが固められ、反省の声は聞えず、処分の動きもないというのが現状です。
  もしも、DNAの再鑑定がなければ、旧鑑定を押し付けられてした「自白」が虚偽であったことは判らないままにすんでいたという仕組みこそが、いまこそ真剣に反省されるべきで、それが「取調べの可視化(録音・録画)」または「弁護人の立会い」という問題です。
  ところが、捜査当局はいまだに従来の姿勢を崩していません。問題は、その理由です。取調べの過程を全部可視化することになれば、捜査官と被疑者との「信頼関係」が崩れ、真実の発見が困難になるというのです。そこには、犯人に本当のことをいわせるには「密室で追及する」に限るという本音が覗いています。そこから、孤立した被疑者が捜査当局を信頼して「自白」すれば有利にしてもらえるという誘惑が生じ、それが「虚偽の自白」を生み出す構造になっているのです。
  しかも、このような「密室での取調べ」は国連の人権委員会から繰り返し批判され、抜本的な改善を勧告されているということも、もっとマスコミは報道するべきで、その改革こそが捜査機関に対する国民の「信頼」を回復する道だと思います。
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by nakayama_kenichi | 2009-06-22 20:36

臓器移植法の改正

 臓器移植法の改正案が、会期末に突如登場して、衆議院では、わずか8時間の審議で、いわゆるA案が通過してしまいました。「脳死は人の死か」という根本問題をはらんでいる法律であるだけに、この度の改正作業の手続と内容には、重大な疑問があるといわなければなりません。この問題については、ブログでも、2005年段階で何回か触れ、今年に入っても取り上げたことがありますが、とりあえず、いくつかの問題点を指摘しておきます。
 第1は、どの新聞も、A案が「脳死は死」とし、死の概念の転換を前提としたものであると評価している点ですが、「改正案」には、そのような表現は一切使われていません。あくまでも臓器移植の場面に限る趣旨であることを、しかも衆議院での法案審議中に、法案提出者が繰り返していたという事実に注目すべきです(朝日の社説は「骨格が揺らいだ」としています)。
  第2は、どの新聞も、改正案の「全文」を掲載していませんが、その内容は、一読して意味が判るような内容とはほど遠く、とても理解し難いような「悪文」の典型です。「死体(脳死した者の身体)を含む」という表現はそのままで、「脳死体」という表現はありません。
  第3は、脳死した者の身体が、本人の同意がなくても(不明であっても)、遺族が承諾したときは、死体からの臓器移植の対象になるとした点で、これが最大の改正点なのですが、なぜ遺族が承諾しただけで十分なのかという理論的根拠が何ら示されていません。「脳死は死」が前提だというのであれば、他の医療現場にも波及し、混乱を招くことは必定です。
  第4は、本法の「見直し」条項といわれるもの(附則2条)が規定された経緯に関する論点で、「検討等」とされた意味に関する当時の議事録の再検討が必要だろうと思います。
  ともあれ、かつての臓器移植法案の立法時と同様に(参議院で修正された)、参議院での特別に「慎重な審議」を期待したいものです。
 
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by nakayama_kenichi | 2009-06-20 09:37

中学の同級会

 滋賀県立の旧制虎姫中学のクラス会は、ここしばらく途絶えていましたが、その理由は、それまで世話役をしてくれていたS君(京大理学部卒業後、母校で数学の教師をしていた)が、平成17年に死去してから、その後継者がないままに推移していたからです。
 最近、S君のところにあった一件書類を引き継いでいたF君から連絡があり、今後の方針の相談を含めて、一件書類が私のところに送られてきました。このままでは放置できませんので、できればクラス会を再開する方向で、何らかの方策を考えなければと思案しているところです。
 一件書類を見ますと、昭和19年に旧制虎姫中学を卒業したわれわれのクラスは、総員で106名を数えていましたが、平成14年当時の名簿では、すでに34名の物故者が記録されており、72名の住所録が残されています。
 ところが、平成14年にS君が死去してから後に、おそらく最近になって居所を確認して作られた名簿には、わずか21名の記載しか見られず、しかもそれが現在でもなお正確かについては定かではない状態です。おそらくこれは、最後のクラス会の出席者の名簿ではないかと思われます。
 この貴重な名簿を頼りに、今年中にでも、久しぶりにクラス会を開催できるようにしたいと念願しています。われわれは、戦前末期の物心ともに多難な時代に、伊吹山を見下ろす湖北の地で、5年間勉学を共にし、その後何らかの形で戦争に巻き込まれながら苦労した世代です。その当時の昔話に花を咲かせる機会を作りたいものです。
 
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by nakayama_kenichi | 2009-06-18 20:17

1回結審

 「法学セミナー」7月号に、国選弁護修習中の司法修習生の「真実の多面性」という短い文章が掲載されているのが目にとまり、考えさせられました。
 この事件では、被告人は自白していて、裁判は1回で結審するものと思っていたところ、被告人は弁護人との接見で、精神病院に通っており、事件当日も薬を飲んでいて、物事がよく分からなかったというのです。検察官の請求証拠には、被告人の精神状態に関する証拠がなく、しかし開示を求めたら、被告人の言い分に近い供述調書や簡易鑑定の結果が出てきたので、弁護人も資料の蒐集に努め、結局、責任能力を全面的に争う方針を固めることになり、1回結審どころの話ではなくなったというのです。
 著者によりますと、「正直、弁護側が被告人に有利な証拠を蒐集することは、苦労の連続で、捜査側との力の差は、驚くほどである。それなのに、国選事件の報酬は非常に低額である。それでも、弁護人がしっかり活動しなければ、責任に見合った処罰ができなくなる(究極的には、冤罪が発生する)おそれがあるから、弁護人は全力を尽くさなければならない」。
 以上の指摘は、裁判員裁判の実施にとって、多くの示唆を与えています。検察はこれまで通り、被告人に有利な証拠を出したがらないので(全面開示の義務はなく、取調べの可視化もない)、有能な弁護人の熱心な弁護活動が不可欠なのですが、国選弁護を充実して行く態勢にはなお程遠く、弁護士の刑事弁護離れの現象が起きる恐れがあります。
 むしろ、取調べの可視化(録音・録画)と証拠の全面開示を前提とした刑事裁判の構造改革が先決で、それを欠いた「迅速裁判」では、隠れた冤罪が増える心配があります。
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by nakayama_kenichi | 2009-06-15 21:06

国家の謝罪の仕方

 栃木県で女児が殺害された「足利事件」で被告とされ、最高裁まで争ったが有罪が確定し、無期懲役刑で服役中に、実はDNAが一致しないことが判明し、17年ぶりに釈放された菅家さんに対しては、関係した警察・検察・裁判所が謝罪を含めて、どのように対応するのかが注目されています。
 6月10には、最高検の次長検事が記者会見をして、「真犯人とは思われない人を起訴し、服役させたことについて、大変申し訳ない」として、検察として初めて公式の謝罪の意を表明しましたが、検察幹部がこうした形で謝罪するのは極めて異例のことです(朝日新聞6月11日)。
 次いで、6月11日には、栃木県警の本部長が、上記とほとんど同文の内容の謝罪のコメントを公表し、さらに警察庁長官も同様な趣旨の遺憾の意を表明し、今後このようなことがないようにしたいと述べました。そして、栃木県警としては、刑事部長をトップとした当時の捜査の問題点を検討するチームを設置して、その結果を公表すると表明しました(東京新聞6月12日)。しかし、裁判所側からは、最高裁を含めて、いまだに何らの動きも報じられていませんので、今後に注目する必要があります。
 冤罪に対する国の責任は、「再審」や「国家賠償裁判」でも明らかになりますが、問題は形式的な謝罪ではなく、「真犯人」でない者を、なぜ「真犯人」として起訴し、有罪とし、服役までさせたのかという原因の究明にあり、それが当の警察・検察内部の調査から明らかになるとは到底思えません。冤罪の被害者を入れた第3者委員会を設置して、まずは「虚偽自白」を生む捜査構造の抜本的な改革に着手することが必須の課題だと思います。また、裁判所に対しては「人権の砦」としての責任から、かつての「横浜事件」をはじめとする「司法が背負う過ちの歴史」を真剣に反省してほしいものです。
 
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by nakayama_kenichi | 2009-06-13 10:56

刑法の根底にあるもの

 最近の刑法学会で、西原春夫氏(早稲田大学名誉教授)が講演された際に、かつて若かりし頃のマルクス主義をめぐる私との論争について言及されました。
 私どもは、昭和初期の生まれの同世代で、「法律学の未来像」と題する座談会(藤木英雄、西原春夫、中山研一、田宮裕)の記録が残っています(昭和40年1月23日、「書斎の窓」131,132号所載)。しかし、その中には、このような論争は見当たりません。
 問題は、西原春夫著『刑法の根底にあるもの』(初版昭和54年、増補版平成15年)の中に、「マルクス主義」の基本思想に対する批判的考察が含まれていたことに由来します。当時私は、本書の書評を書いた記憶があるのですが、今回改めて増補版を読み直して見ました。
 西原さんは、本書で、刑法の根底にあるものとして、マルクス主義は下部構造が上部構造を規定するという側面をとりわけ強調して、法の階級性や法の死滅の理論を説くけれども、そのような側面があることを肯定しつつも、なお生産関係以外のものを刑法の根底におくためには、共通分母として、刑法の階級性とともに、超階級的な性格を加える必要があり、それが「人間の欲求」であると主張されたのです。
 しかし、マルクス主義は、その「人間の欲求」自体も、実際には歴史的な時代の生産関係の場から生み出されるもので超歴史的な抽象物ではないとするのです。そこに見解の相違がありますが、そのような現状の説明方法の論争よりも、むしろ大事なのは、憲法理念の下で、治安優先の国家主義的な刑法の乱用をいかに防止すべきかという点にあり、その点では、本書は基本的にリベラルでヒューマンな立場にあるものとして共感を覚えました。
 なお、私自身も、社会主義刑法研究の総括と反省をしていますので、興味のある方は、参照して下さい(京大法学部創立100周年記念論集2巻、1999年)。
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by nakayama_kenichi | 2009-06-09 21:15

刑法読書会490回

 6月6日(土)の午後、京都の立命館法科大学院で、「刑法読書会」が開かれましたが、創立以来490回目に当たります。月例研究会ですので、来年には確実に500回に及びます。
 刑法読書会については、このブログでもたびたび触れていますが、私自身の研究生活の中では、一番身近で大事なものですので、刑法読書会が時代の変遷にも耐えて、これまで500回近くも継続してきたことには、一種の感慨を覚えざるをえません。
 この研究会は、佐伯先生が平場・宮内先生とご相談の上、戦後の1950年頃に立ち上げられたもので、当時は私どもの世代が助手か大學院生の時代でした。すでに60年ほども前のことで、まだ京都府立医大付近にあった立命館大学の古いキャンパスの中の狭い部屋で行われ、10名程度のこじんまりした集まりであったと記憶しています。
 刑事法に関する外国文献、とくにドイツ語で書かれた文献を紹介するというのが会の目的で、私どもの世代の者も、最初は文字通り四苦八苦の連続でした。私も、何とか人なみにドイツ語文献の紹介を担当しましたが、私自身は、本来が旧制高校で文科甲類(英語が第1外国語)に属していた上に、ロシア語文献の購読の方に力を入れていましたので、肝心のドイツ語文献の紹介には積極的に取り組まないままに終わり、それが今日まで響いています。しかし、刑法読書会がなかったら、ドイツ語文献を読む機会はもっと少なくなっただけでなく、研究会で人の報告を聞いて、内容を理解し、すぐに質問するという、研究者として最も基本的な基礎的訓練を磨く機会にも恵まれなかったであろうと思います。
 6月6日の読書会には、30名以上の会員が集まり、盛況でしたが、若い会員が多く、第1回目から出ている初代会員はわずか私1人という状態でした。いつまで続くか分りませんが、500回記念の研究会までは行けるだろうと思っています。
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by nakayama_kenichi | 2009-06-08 10:23

足利事件の教訓

 1990年に栃木県で起きた幼時殺害事件で、無期懲役が確定し、千葉刑務所に服役中の菅家さんが、再審を待たずに釈放されたという記事が最近の新聞で大きく取り上げられています。しかも、その理由がDNA鑑定によるもので、これは紛れもなく「冤罪」であることが判明したのです。問題は、そこからどういう教訓を引き出すべきかという点にあります。
 まず、この明白な「冤罪」を作り出したのが国家権力であり、その責任が警察・検察の捜査機関だけでなく、裁判所、しかも最高裁判所にまで及んでいるという事実を忘れてはなりません。誤判の原因がDNA鑑定の技術の進歩の差にあったという形で矮小化してしまうのは、表面的な言い逃れに過ぎず、真っ先になすべきは、この冤罪事件に関わった国家機関が公式に反省・謝罪し、責任者を処分した上で、以後このような人権侵害を繰り返さないための「制度的な保障」を確立することでなければなりません。
 この事件では、DNA鑑定が有罪の証拠とされただけでなく、嘘の「自白」を引き出すために利用されたという事実に注目すべきです。誰もが不思議に思うのは、無期懲役にも当たるような重大な犯罪について、真犯人でない者がなぜ嘘の「自白」したのかという点です。菅谷さんは、DNA鑑定を突きつけられて自白を迫られ、暴行も受けたとして、当時の警察・検察官を絶対に許さないと語っています。今こそ、「代用監獄」における密室の長期間にわたる取調べそのものを廃止する決断が必要なのです。
  ところが実際には、この期に及んでも、警察は取調べ状況の録画の拡大を検討するというだけで、「全面(可視化)」というわけではないと断っています。「自白は証拠の王」として重視されてきた伝統が、裁判員制度にも及ぶという危惧は、決して杞憂ではなく、この機会にこそ、捜査機関による取調べの「全面可視化」を実現しなければなりません。
  
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by nakayama_kenichi | 2009-06-06 10:01