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最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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Lesser evil の世界

 最近、ある法律雑誌に掲載された元東大教授で国際法専攻の大沼保昭氏の論文(「社会における法の意義と害悪―国際法の認識と実践を通して考える」法律時報81巻4号72頁)を読む機会があり、基本的に共感するとともに、考えさせられました。
 そこでは、「戦争責任と戦後責任」や「在日韓国・朝鮮人問題」などが語られていますが、しかしそれらの問題を一面的に見ることは誤りで、たとえば第2次大戦で日本軍が一千万人以上のアジアの民を殺したという事実は決して消えないけれども、しかし戦後の日本が誤った過去を反省して平和主義を守り、世界有数の経済的繁栄と安全で信頼性の高い社会と文化を作り出し、貧しい途上国に大規模な援助と協力を行ってきたということは十分に誇ってよい事実であるといわれています(ただし、過去の反省と平和主義が揺らぎつつありますが)。
 これまで、人類は過ちから学び、絶えず揺り戻しを経験しながら、長期的には少しでもましな世界へと向かっていると信じて、小さな実践を積み重ねることが大切であり、その際には、変化がひとりでやってくるものではなく、現実を変えるのは、その現実をおかしいと感じ、それを冷静に分析し、それに基づいて実践する一人一人の取り組みであるといわれるのです。
 そして最後に、民主主義という「多数の専制」が働きやすい現代社会では、「最大多数の最大幸福」よりも、「少数者への最小抑圧」という価値理念こそが保持されるべきではないかと結ばれています。それは、法が現実を正当化する側面をもつことへの警鐘といってよいでしょう。
 
 
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by nakayama_kenichi | 2009-03-28 20:42

死刑の容認と廃止

 一方では、「死刑廃止は世界のすう勢」といわれながら、他方では、日本では一連の凶悪犯罪に対する死刑判決が次々に言い渡され、死刑の執行も増え続けています。このままでは日本は「死刑大国」となり、出口が見えないことになります。
 3月19日の朝日新聞は、社説を含む大きな記事で、名古屋の「闇サイト殺人」事件の死刑判決をとりあげて、死刑制度がある以上、多くの人が納得するであろうと書いていますが、しかし、その翌日の3月20日の記事では、アメリカ西部のニューメキシコ州で死刑を廃止する法案が上下両院で採択され、2007年に死刑を廃止したニュージャージー州に次いで廃止州が増え、これでアメリカでは死刑廃止州が15州に増えたことを「短い記事」で紹介しています。
 また、国連の国際人権(自由権)規約委員会は、日本の人権状況に関する「総括所見」(2008.10.30)の中で、「代用監獄」の廃止などの問題ととともに、死刑の問題にも触れて、「締約国は、世論調査の結果にかかわらず、死刑の廃止を前向きに検討し、必要に応じて、国民に対し死刑の廃止が望ましいことを知らせるべきである」と述べていますが、この点もマスコミではあまり取り上げられていないのが現状です。
 最大の問題は、被害者の感情ですが、この点についても、アメリカには、死刑維持よりも未解決犯罪の捜査の促進を優先するという「被害者団体」の運動も生まれているようです(毎日新聞3月23日)。日本でも、裁判員制度の導入を契機に、発想の転換と再考が必要な時期に来ているように思われます。
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by nakayama_kenichi | 2009-03-27 20:34
 このマンションに入居されています雲井昭善先生の第3回目の講演会が、3月25日の午後2時から開かれ、1回目、2回目同様、多くの来聴者がありました。今回は、『「生」を見つめ、「死」と向き合う』という題名で、約一時間のお話をみんな真剣な面持ちで拝聴しました。ここは高齢者用マンションなので、年配の老人が多く、その上、講師の雲井先生ご自身が94歳のご高齢でもありますので、「生」と「死」の問題は、最初からインパクトをもつものでした。
 先生は、とくに仏教の観点から「生と死」との関係を説かれたのですが、まず最初から、「死」を忌み嫌って避けたがる日本人の風潮を批判し、「死と向き合う」ことの必要性を指摘されました。しかし同時に、それが来世や霊魂を思い描くのではなく、何よりも「生」を見つめることと実は合体したものであることを説かれたのです。
 人の「生」があるから「死」があるという「因果的な」理解ではなくて、「生」と「死」が表裏一体の相互関係にあるという「因縁的」な理解が必要であるとされ、その例として、桜の花が散り、椿の花が落ちるのと違って、紅葉の枯葉がひらひらと落ちるとき、葉の表と裏が「生」と「死」の関係を表しているといわれるのです。
 雲井先生は、結論として、心のなかで「死」を受け入れるとともに、残された「生」を精一杯に生きることの大切さを訴えられましたが、それがお釈迦様の80歳の大往生の際の遺言だったといわれたのです。聴衆はみな、大きな感銘を受けました。
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by nakayama_kenichi | 2009-03-25 21:15

横浜事件に無罪判決を

 「横浜事件」とは、1942年から1945年までの間に、戦争に批判的なリベラルな研究者やジャーナリスト60余名を、悪名高い「特高警察」が「治安維持法」で検挙し、激しい拷問を加え、4名が獄死したという思想弾圧事件をいいますが、その裁判が半世紀を経た今もまだ解決していないことに思いを致す必要があります。
 敗戦の直後で、治安維持法がまだ廃止されていない短い期間内に、当時の横浜地裁が急いで下した有罪判決に対して、治安維持法の廃止後に、犠牲者が「再審」の訴えを提起したのですが、ようやく認められた「再審」でも、確定判決があることを理由に「免訴」という形式判決にとどまりました。しかし、犠牲者とその遺族はこれに満足せず、あくまでも「無罪」判決を求めて、「再審」はなお続行中です。
 それは、治安維持法のもとでもかつての有罪判決が「誤判」であったことを明確にすることが、犠牲者の真の願いであり、それが特高警察による治安維持法の適用を認めた裁判所に対する歴史的な審判にもつながるという確信に支えられているからです。当時の特高警察は、すでに当時の関係書類を全部焼却して証拠を隠滅していますので、第4次「再審」を開始した今の横浜地裁が「無罪」判決を言い渡すには困難があることは事実ですが、国家権力が行った非道な悪事を裁き直すという勇気をもった「英断」を今の横浜地裁に期待したいものです。その趣旨で、私も横浜地裁の大島裁判長に「英断期待」のはがきを送る運動に協力しました。
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by nakayama_kenichi | 2009-03-23 20:19

施餓鬼法要

 今日は3月20日で、春分の日。びわ湖の周辺もたいぶ春めいてきました。
 例年の行事として、檀家寺の盛安寺(天台盛宗)で、施餓鬼の法要があり、比較的近いので、自転車で出かけました。「施餓鬼」とは、餓鬼に施すという意味で、食べられない人に食を施し、食のありがたさを自覚させるという仏教の教えをいうようです。
 少し早目に行って、境内の墓地にある先祖累代の墓にお参りした後、お寺の本堂で、3人の坊さんが唱えるお経を小一時間聞きました。いつも意味がわからないお経を聞くというのも退屈ですが、伝統的な儀式として定着しています。20名ほどの参加者のほとんどがお寺の近隣から集まった檀家の皆さん方で、年配の女性が多いというのもいつもと変りのない現象です。
 問題は、お経とお焼香が終わってからで、檀家の皆さんが「お供え」として持ってこられたものを、参加者の全員に分けるために、新聞紙を部屋一杯に広げて、そこに盛りわけし、これを袋につめて、各人が持ち帰るという習慣が定着していることです。中身は、全部食べ物で、袋菓子やジュースや果物など、色とりどりですが、これを貰うことがまさに「施餓鬼」の趣旨に合致しているということなのでしょう。私も、大きなビニールの袋一杯の「食べ物」を施され、重い荷物を自宅まで持ち帰りました。
 私としては、「施餓鬼」の意味を含めて、お坊さんの「説教」を聞き、お坊さんを中心に檀家の皆さんとの交流があればよいなあという感想を持ちました。
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by nakayama_kenichi | 2009-03-20 17:54
 この難しい名の法律は、2005年に施行されたもので、附則で5年後の見直しを定めていましたが、もうその時期が近づいてきています。この法律は、心神喪失(是非を弁別する能力のない)などの状態にある精神障害者が殺人、放火等の重大な他害行為を行った場合に、検察官の申立てによって、裁判所が裁判官と精神科医の合議で、「指定医療機関」への入院や通院を命じることを規定したものですが、その成立当時から賛否両論がはげしく争われたものです。
 ある精神医療系の雑誌が、本法の見直しに関する「特集」を企画し、私にも依頼がありました。「医療観察法の制定過程と性格論争」というテーマでしたので、本法の制定当時の文献を集めて再検討するという作業に追われました。おかげでかつての制定当時の法案をめぐる論争を改めてフォローし直すことができて、よい勉強になりました。「臨床精神医学」38巻5月号(2009年5月)に収録されることになっています。
最大の論点は、国会審議の段階で、「政府案」にあった「再犯のおそれ」の要件が削除されて、「修正案」がこれを「医療の必要性」に変更したという点でした。しかし、「同様の行為を行うことなく」という文言が入ったために、本法が「保安法」から「医療法」に変化したのかどうか、なお微妙な問題が残っていたのです。
しかし、本法施行後の実際の運用は、とくに付添い人の弁護士の献身的な努力もあって、種々の問題を抱えながらも、基本的に「医療法」として運用されているといえるでしょう。しかし、そのためにも最大の問題は、わが国の精神医療一般の人的・物的な貧困状態をいかに改善すべきかという点にあることを繰り返し強調しておく必要があります。
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by nakayama_kenichi | 2009-03-18 22:21

ウイグル人との出会い

 3月14日の午前に、このマンションの知人から連絡があり、中国のウイグル自治区から京大の大学院に留学している女子大生と面会してくれないかという依頼を受けました。翻訳・通訳・語学教育に関する人材紹介サービス会社の仕事の一環として、彼女にアルバイトの斡旋をする活動の一つだということでした。
 この留学生は、中国でも漢民族ではなく、はるか奥地のウイグル自治区の出身だということで、これまでウイグル人に会うのは初めてという貴重な経験をしました。本国では、大學の英語の先生だそうですが、一年半ほど前、ご主人と2人の子どもを郷里に残して、単身来日し、日本語を勉強中で、もう日本語もかなり話せるようになっているのには驚きました。中国人というよりも、モンゴル人に近いように思われ、髪も黒く、もっとも日本人に似ていて、全く不自然さがなく、すぐに打ち解けて話ができました。
 問題は、名前ですが、はじめは「ローゼ」と呼んでいましたが、実際には、日本語読みにして「レイハングリ」(グリは女性)というのだそうです。実際に、ウイグル語と中国語で紙に書いてもらいましたが、とくにウイグル語は、右から左に向けて書かれたもので、これをフォローすることは全く不可能です。
 ウイグルのことは、あまり詳しく聞く時間がありませんでしたが、遠い国から単身で日本に留学し、日本語の勉強に励む若い「レイハングリ」さんの勇敢さに拍手し、心から励ましてあげたいという気持ちが沸いてきました。今後もメールで連絡し合うことを約して別れました。
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by nakayama_kenichi | 2009-03-16 17:45
 3月14日の朝日新聞に、日本の裁判員制度に関する「自白」の判断に関して、アメリカのノースウェスターン大学のスティーブン・ドリズィン教授のコメントが掲載されています。私も、教授の共著(『なぜ無実の人が自白するのか』伊藤和子訳、日本評論社、2008年)を読んだばかりなので、共感するところが多く、その要旨を引用しておきます。
 「米国では、罪を自白した人が後にDNA鑑定や真犯人の登場などで無実と判明した例が71年ー02年に125件あります。81%が殺人で、起訴されて有罪となった事件では43%が死刑か終身刑でした。・・・疑われた人は「この場から一刻も早く逃れたい」という気持ちにかられ、「捜査官のシナリオを受け入れることが唯一の道」と考えるようになります。疲れ果て「覚えていないが、自分がやったのだ」と思い込む例があります。・・・そして実際には、虚偽自白と判明した事件の裁判の8割で陪審が全員一致で有罪判決を下しています。だからこそ、自白に至るまでの全過程を録画し、陪審に見せることが大切です。自白の部分だけを録画したのでは「結果」を示すだけで「自白が信用できるものかどうか」の判断材料にはなりません」。
 ところが、日本では、自白部分だけの録画にとどまり、検察は「全過程の録画」に絶対に反対しています。しかも密室での長時間の取調べも変らないとしますと、隠れた「誤判」が出るおそれは、アメリカよりも大きいといわざるをえません。全面録画を初めて法制化したイリノイ州知事の英断に学ぶべきでしょう。さらに、イリノイ州知事は、誤判の原因が解明されるまでは死刑執行を停止することまで決断したといわれています。
 
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by nakayama_kenichi | 2009-03-14 12:39

加藤周一氏から学ぶもの

 加藤周一氏については、朝日新聞の随想欄に毎回目を通し、ヒューマンな思想に裏づけられた広く深い洞察力に啓発されていました。最近死去された際、多くの方々から寄せられた惜別の辞も記憶に新しいところです。
 最近、「9条の会」が発行している『加藤周一が語る』という小冊子を読む機会がありましたので、改めてその思想の一端に触れ、今は「遺言」となった加藤周一氏の独特の語り口から、憲法9条にかかわる以下の2点を学ぶべきものと実感しました。
 「外交的な方法じゃなくて、軍事的な力を使って問題を解決しようというのは、私はあまりうまくないと思うんですよ。いままではほとんど全部、失敗でした。日本が攻撃されたときに自衛の必要があるのではないかということはよくいわれるけれど、第2次大戦以後は攻撃された例はありません。第2次大戦は日本が始めたわけでしょう。その結果、憲法9条ができた。だから、我々は積極的に9条を守ろうと、進めようということを言っているわけです。9条をつくった動機、それは再び戦争をしないということ。それが一番大事です」。 
 「ナショナリズムが戦争と結びついている。・・・今度の教育基本法は、個人の尊厳より愛国を示唆するわけですね。つまりナショナリズムを煽ることが潜在的に含まれていて、たいへん戦争するのにやりやすいものになりました。・・・戦争が本当にいやならば、そしていやなだけでなくて、本当に戦争しないほういいのだという確信があったら、それを通した方がよい。そして当然、改められた教育基本法にも反対したほうがよい。それから、君が代の強制にも反対したほうがよい」。 
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by nakayama_kenichi | 2009-03-13 09:29

迫力を欠く有罪判決

 3月9日(月)午前10時から大阪地方裁判所で、私も弁護人に加わっている刑事事件の判決公判がありました。公判開始前の緊張感の直後の裁判長の第一声は、被告人を懲役4年6月に処するという低い声で、弁護団が期待した無罪判決は得られませんでした。
 あとは、裁判長が判決理由の要旨を淡々と読んで行くのですが、その時間も比較的短いもので、法廷には冷たい空気が流れたままで終わりました。それは、事件の事務的な処理を思わせるもので、これが「人を裁く」ことなのかという疑問と深い挫折感を覚えました。
 この事件は、被告人が最初から否認を続け、自白も勾留もなく、最初は業務上過失致傷罪で不起訴になったものが、その後の1人の目撃証言を唯一の証拠として、故意の「危険運転致傷罪」に格上げして起訴されたもので、検察官の立証に熱意が感じられない反面、弁護側が多くの弾劾証拠をあげて、全力をあげて取り組んだものです。
 裁判所は、証拠調べには丁寧に対応したものの、最終の判決には、なぜか「迫力」も「説得力」もなく、これで被告人や弁護人の真摯な訴えに正面から答えたのか、答えようとしたのかという疑問が消えず、残念でなりません。有罪と決めた上で、その理由を説明するだけならば簡単なことですが、それが「合理的な疑いを超える」確信であれば、もっと「迫力」のある説得的な論証ができたはずだと思われてなりません。
 警察や検察の手抜きや不手際については、とり立てて問題にしないという甘い姿勢にも、この種の有罪判決の特色が見られるようです。控訴審に向けて、無罪判決を獲得することの困難さを、あらためて自覚させられた次第です。
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by nakayama_kenichi | 2009-03-10 16:06