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最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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瀧川先生宅訪問

 7月28日午後に、熊谷開作先生の弟子にあたる後藤さんと一緒に、京都山科の日ノ岡にある旧瀧川先生宅を訪問する機会がありました。現在は、瀧川先生の次女に当たられる栄子さん(熊谷先生夫人)の長女の小松あかねさんご夫妻が住んでおられるのですが、当日は、次女の山田ゆかりさんと息子さんまで来ておられ、私どもが賓客として歓迎されるという幸運に恵まれた次第です。
 地下鉄の陵(みささぎ)駅で降りて、折からの雨の中を歩きましたが、「日の岡」という交差点の表示とともに、道に沿った小川の豊かな清流が、実に50年以上も昔に、2.、3度訪問したときのおぼろげな印象をよみがえらせるものでした。
 この瀧川先生の遺邸は、昭和3年に建てられた80年も前の古いものですが、当時としては珍しい北欧的なたたずまいのユニークな洋風建築で、「京が残す先賢の住まい」のひとつとして、紹介されています(前久夫著、1989年、京都新聞社)。
 私個人は、瀧川先生のゼミ生として、また大学院の指導教授としての学恩があるほか、次女の栄子さんのご主人の熊谷開作先生とも、かつて北陸大學法学部の創設時に短期間でしたが親密な交流をさせて頂いたという関係があります。その後、栄子さんとは毎年お会いして昔話しをし、私どもの瀧川ゼミ生の会にも出席していただきましたが、残念ながら亡くなられました。そこで、せめてお2人のお嬢さん方と交流したいと考えていたのですが、今回は、50年ぶりの瀧川邸訪問によって、その年来の念願がかなうことになったのです。
 先生の大きな写真を拝見しつつ、あらためて昔の思い出がよみがえる思いでした。
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by nakayama_kenichi | 2008-07-29 10:54

責任無能力者の故意

 これは「刑法学ブログ」ですので、すこしむずかしい専門的なことも書いておきます。
 心身喪失者等医療観察法は、心身喪失等の状態で、殺人、放火、強盗、強姦、強制わいせつ、傷害といった重大な他害行為(「対象行為」)を行った者に適用されることになっていますが、行為者が幻聴妄想等に基づいてこれらの行為を行ったときは、自分がやったといわれる行為については何も憶えていないとか、場合によっては、自分の身に降りかかる侵害を払いのけるためにやったと思い込んでいるような場合があり得ます。
 これらの場合には、行為者には責任能力がないので刑罰は科されませんが、そのまま医療観察法上の「対象行為」があったと判断してのよいのかという問題が生じます。
 従来は、行為者が現にこれらの重大な他害行為を実際におこなっているのだから、それだけで「対象行為」があったと判断して、医療観本法による指定入院機関への入院や通院等の処分をすることが可能だと考えられてきたといってよいでしょう。
 しかし、これらの罪はすべて「故意犯」ですから、行為者が事実を認識していなければ「対象行為」があったとは判断できないのではないかという主張が出されました。
 そこで、最近の最高裁判例(最決平20・6.18)は、行為者が幻聴・妄想によって認識した内容ではなく、外部的行為を客観的に考察し、心身喪失等の状態にない一般の者による認識を基準として判断すれば、「対象行為」の存在を認定できると判断したのです。
 その結論自体は妥当としましても、「責任無能力者の故意」を一般人を基準として認めることには疑問があるというべきでしょう。詳しくは、判例批評で扱うことにします。
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by nakayama_kenichi | 2008-07-27 16:43

仙崖荘の名の由来

 若狭の賢者といわれた乾長昭翁ガ郷里の若狭に移り住んで、門人達に四書、とくに論語などを講じられていた寓居は、「仙崖荘」と名づけられていました。昭和の初期に建てられたものといわれていますので、80年も以前のことで、修復も無理となり、建物を壊して、石碑を建てるようになった経緯については、このブログでも紹介してきました。
 そして、この7月13日には「乾長昭翁の生涯」という講演も無事に済ませたのですが、その夜、例の91歳の赤崎翁から、「仙崖荘」の名の由来について、それは、「仙涯和尚」(仙涯義梵 1750-1837年)からきているのではないかと聞きましたので、少し、仙涯和尚について調べてみました。参考文献として、堀和久著『死にとうない―仙涯和尚伝』(新潮文庫、平成8年)を読みましたが、そこには筑前博多の名刹である聖福寺の住職になって、庶民とともに生きた仙涯和尚の実に波乱に富む生涯がいきいきと描かれていて、洒脱なユーモアの影に秘められたきびしい修行の長い道程に感動しました。
 たしかに、悟りを開くための厳しい自己練磨と、弟子達への暖かい思いやりという点では共通するものが見られますが、しかし、結論としては、乾長昭翁の生涯とはかなり違うところもありますので、「仙崖荘」の名の由来を直ちに仙涯和尚に求めることには躊躇を感じました。これは、乾長昭翁自身も語られなかった「秘密」で、むしろ仙人の住む崖の上に立つ寓居という一般的な意味ではなかったかというのが私の感想です。
 なお、仙涯和尚の本の中では、「おごるなよ 月の丸さも、ただ一夜」とたしなめられた句が心に残りました。
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by nakayama_kenichi | 2008-07-27 16:39

天は自ら助くる者を助く

 さらに、上掲書によりますと、湯川博士は「日本国憲法と世界平和」(『世界』1965年6月号)と題する論稿の中で、ラッセル・アインシュタイン宣言(1955年)が公表される数ヶ月前に、その趣旨に全面的に同感すると同時に、それよりもすでに数年前につくられた日本国憲法を想起しつつ、軍備競争を現実的と判断したり、全面完全軍縮をまったく非現実的だとするのは、救いのない悲観論や宿命観以外にものではないとして、以下のように明言されていました。
 「私がここで『天は自ら助くる者を助く』という古い言葉を引用したら、皆さんに笑われるかもしれない。しかし、人類は今まさに、自ら助けるか、あるいはいわゆる現実的判断なるものに従って運命の手に自己をゆだねてしまうかの分かれ道に立っているのである。もしも自らを助ける道を選ぼうとするならば、(憲法前文にあるように)諸国民は平和を愛し、互いに公正と信義を信頼して安全と生存を保持しようと決意し、この信頼と決意の上に立って恒久平和への道を歩みだすほかはないのである。そしてまた、憲法9条が非現実的であるどころか、今日すでに、そして将来はなおさら、日本国民が自らを助けるためにとるべき唯一の現実的態度であることが、いよいよ明白になってきたのである。・・・・この18年間、私たち日本人がこの憲法に従って来たことの意義は、決して小さくなかった。それどころか、このことを、人類の自らを助けようとする決意と努力をうながし強化するのに役立たせることができたならば、日本人が、そして日本国民が人類の歴史のなかで大きな役割を果したことになるであろう」。
 著者もいわれるように、40年前の湯川博士の真情が、今日のわれわれにストレートに伝わってくることを強く感じます。
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by nakayama_kenichi | 2008-07-23 09:56
 田中正氏の近著『湯川秀樹とアインシュタイン』(岩波書店2008年)には、多くの興味ある情報が含まれていますが、その中でも、アインシュタインが、米国への亡命後も、一貫して社会主義に理解を示していたのに対して、「ラッセルーアインシュタイン宣言」(1954年)で共に核戦争の廃絶を訴えたバートランド・ラッセルが強硬な「反共主義」者であったといという対照的な対応が見られたことが注目を惹きます。
 しかし、そのアインシュタインも、1949年の著書の中で、社会主義を支持すると同時に、その末尾で次のような懸念を表明していたという点にも注目する必要があるでしょう。
 「それにもかかわらず、計画経済はまだ社会主義ではないことを想起する必要があります。計画経済そのものは、個人の完全な奴隷化を随伴します。社会主義の達成は、次のような極度に困難な社会政治的諸問題の解決を要求しているのです。つまり政治的・経済的な力が広範囲にわたって中央集権化している場合に、官僚が傲慢にも権力をほしいままにすることを防止するには、どうすればいいのか? また個人の諸権利をどうして保護し、それとともに官僚の権力に対する民主的対抗力を、どうして確保できるか、という問題です」。
 さすがに鋭い洞察力のある指摘であり、実際にソ連はこの課題を解決できずに崩壊しました。
 なお、ラッセル自身は、1920年にソ連を訪問して、レーニンや他の指導者達と長時間話し合った末に、彼らのもくろんでいることが自由な世界観の人のだれもがもつ願望とはまったく反対であるという結論に到達したと述べていながらも、他方では、世界の偉人として、「一にアインシュタイン、二にレーニン、あとはいない」といっていたという逸話も残っているようです。
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by nakayama_kenichi | 2008-07-20 22:22
 最近、私が京大在職時代に、理学部物理教室で湯川博士の教えを受けた同世代の友人である田中正氏から、『湯川秀樹とアインシュタイン』(岩波書店2008年)という書物の寄贈を受けました。これは、すでに予告されていた待望の書でしたので、一種の感慨をもって興味深く読み通しました。物理学の専門に関するところは分かりませんが、本書の主題である「湯川博士の思想(科学・平和)の原点」を改めて知ることができて、久しぶりに人類の過去と未来の運命に関わるスケールの大きい根本的な問題意識に心を揺り動かされました。
 湯川秀樹とアインシュタインという2人のノーベル賞受賞学者は、戦前の1939年に一度出会っていますが、本格的な出会いは戦後の1948年以降のことで、ともに核兵器の全廃のための平和運動に協力するという全世界的な課題に関して深い親交関係があったことが、当時の詳しい資料に基づいて、情熱的に紹介されています。
 しかし、同時に、戦時中は、アインシュタインもナチスの台頭の前に原爆開発をアメリカに示唆したこと、また湯川博士も日本の原爆研究に抵抗しなかったという事実にも言及があり、とくに湯川博士は、これを「知識階級の勇気と実行力の欠如」として反省し、戦後の数年間、堰を切ったように「核時代の到来と人類の転換」を訴え、とくに「世界連邦」運動に挺身することになったといわれています。
本書には、著者と共同研究者との間のかなり突っ込んだ「対話」が含まれているのも、きわめて有益ですが、私がブログで紹介したことのある「京大教官研究集会」での湯川博士の講演にも言及されています。とくに、戦前を知らない若い世代の方々に読んで頂きたい本です。
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by nakayama_kenichi | 2008-07-18 13:03
 福井県若狭町の歴史文化館の一室で、6月から8月まで、若狭の賢者といわれた乾長昭翁の遺品の展示会が開かれており、13日(日)には、「乾長昭翁の生涯」と題する講演会が計画され、その講師を依頼されましたので、また若狭に出かけました。
 展示室の中には、帯刀する父満昭(若狭彦神社宮司)の横にうずくまる幼い長昭少年を撮った古い写真をはじめ、長昭翁の直筆になる掛軸や額、達筆の手紙類、講義録や経典類、それに長昭翁の住まいであった「仙崖荘」の木彫りの表札など、貴重な遺品が並べられ、なかでも等身大の写真などが目を惹きました。
 一方、講演会の方は、門人関係者を中心とした少数にとどまるであろうとの当初の予想に反して、130名ほどの多くの聴講者で会場は一杯となり、若狭の賢者に対する関心と影響の大きさに驚きました。私は、自己紹介のなかで、長昭翁が私の亡妻の祖父に当たるという関係に触れ、乾家の家系図も示しながら、とくに尊父の満昭翁も仏学を修めて大乗の法を説いた若狭の賢者であったことに触れた後、長昭翁の略歴と人柄をややくわしく紹介しました。
 とくに意識して話しましたのは、長昭翁がすでに6歳にして父にしたがって漢学を学び、その後は仏学をも修めて古今東西の哲学を研究し、特定の宗派にとらわれることなく、とくに仏教哲学に造詣が深かったといわれていたこと、そして仙崖荘における講義録を実際に読んでみると、その内容が難解であるにもかかわらず、なぜそれが当時の村人達を惹き付ける魅力をもっていたのかという秘密を解明したいという点でした。そのために、今後は、長昭翁の講義録を「読む会」を開いて、私も出席することを約束して、講演を終わりました。
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by nakayama_kenichi | 2008-07-14 22:35
 来年5月から、裁判員制度が導入されることになっていますが、これが国民的な要求から出たものとはいえないため、市民の関心はきわめて低く、法曹三者(法務省、最高裁、弁護士会)のうち、陪審制に最も熱心であった弁護士会の内部でも議論が分かれるという不自然な状況にあります。法務省や最高裁が熱心なのもいささか怪しげで、目的も効果もはっきりしません。
 しかし法務当局側からは、この新制度が煩瑣な「精密司法」から整理された「核心司法」への転換であるといった声も聞こえてきます。そこで、「核心司法」論の元となった平野博士の論文を参照してみました(「参審制の採用による『核心司法』を」ジュリ、1148号2頁、1999年)。
 そこでは、たしかに、参審制によって、捜査記録も、要を得た、そして事件の核心を突いた短いものとなり、公判での証人尋問、反対尋問も、精密なものではなく、核心的なものになるかもしれず、それによって精密司法、調書裁判という現在の刑事裁判の欠点から、なかりの程度脱却できるのではないかとの指摘があります。しかし同時に、それがひいては取調べのやり方、身柄拘束の長さにも影響を及ぼすことへの期待が含まれていました。
 ところが、肝心の捜査過程の現状(代用監獄における密室の長時間の取調べ)については、国連の人権委員会からの度重なる勧告を日本政府は無視し続けてきているが、いつまでも放置するわけにはいかないだろうといわれていたのです(しかし今でも無視されています)。
 このような指摘は、司法改革がまず被疑者の弁護の強化から始めるべきだとする平野博士の提言に対応するもので、これを「核心司法」の名による争点整理の技術に矮小化させてはならないことを示しています。
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by nakayama_kenichi | 2008-07-10 20:42

近江神宮散策

 びわ湖畔のマンションに移ってから、1ヶ月が経ちました。京都よりも大津の方が、また湖畔の15階なので、少しは涼しいかなと思いましたが、今年は暑くなるのも早く、朝晩も蒸し暑くてなかなか温度が下がらないという、いやな陽気になりました。しかし、15階のベランダから琵琶湖を眺めていると、暑さを忘れる清涼感があります。
 建物の内部は、よく出来ており、大浴場も食堂もあって、ホテル住まいの感覚があり、静かな部屋で仕事ができる(パソコンで原稿が書ける)のは、予想にほぼ近く満足しているのですが、外回りの環境が思ったより荒れているのと、外出に不便なことが予想外の短所として気になるところです。海辺には少し緑がありますが、砂浜も手入れされずに放置されており、隣の広く整った区画内は、散歩に適していますが、実は自衛隊の駐屯地で、入れば住居侵入になります。
 そこで、今日の午後は、山手にある近江神宮の方まで、歩くのはちょっと大変なので、自転車(電動自転車)で散策に出かけました。昨夜から今朝にかけて降った雨もあがり、広い境内は緑の木に覆われた静かな散歩道で、心が洗われるような爽快な気分になりました。少し高台に位置していますので、びわ湖の眺望を楽しむこともできます。
 この辺りからは、下坂本の方向にある乾家の墓までは比較的近いのですが、自転車では無理だと思って、過日、京阪電車で最寄りの駅まで乗り、歩いて坂道を登って、ようやく墓地に辿りつきました。しかし、次回は一度、自転車で行ってみようかなと思っています。
 もうしばらくしたら、マンションの入居者によって、周りの環境整備のためのささやかな運動ができるようになることを願っています。
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by nakayama_kenichi | 2008-07-08 22:56

佐伯博士の刑法思想再考

 昨年の4月頃から、佐伯博士の刑法思想にとっていわばタブーとなっていた戦前の「日本法理」との関係を改めて検討するという大それた課題に挑戦し、迷いながらも少しづつ書き溜めてきた原稿が、ようやく一応の到達点に達する段階まで来ました。
 戦前の昭和10年頃以降の国防国家体制のもとで、刑法における日本固有の精神ないし伝統の探求という時代的要請の中で、佐伯博士が執筆された「日本法理」に関わるいくつかの論文が『刑法総論』(昭和19年)の中に結実したところ、それが戦後の教職追放の理由とされたといういわくつきの経過がありました。
 私は最初、これまで埋もれていた佐伯博士の「反駁文」を公表し、その中から隠れていた秘密を探ろうとしましたが、それは自説が「超国家主義」であるという非難に対する反論にとどまるもので、その中に戦後の刑法思想への転換の契機を発見することは不可能でした。
 そこで私は、佐伯博士の戦前の『刑法総論』(昭和19年)と、戦後の『刑法講義(総論)』(昭和43年)とを比較検討する中から、「日本法理」に関連する部分を摘出してみた結果、実はそれが全部否定されたのではなく、これを権威的な国家主義から解放し、個人主義と自由主義の精神に結合させることによって、戦後の佐伯博士の刑法思想が生れたのではないかという仮説に至りつきました。
 佐伯博士の刑法思想は、戦前の「日本法理」との関連を無視するのではなく、むしろこれと関連づけることによって、それを佐伯博士が歩まれた歴史的な苦難の道として理解すべきではないかと思います。
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by nakayama_kenichi | 2008-07-04 23:20