最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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長岡天満宮の「つつじ」

 近くの長岡天満宮の境内にある「梅林」のことは書きましたが、梅に続く華やかな「桜」の季節は意外に短く、4月下旬からは、真っ赤な「つつじ」の花が咲き誇っています。とくに「つつじ」は、八条が池のまわりの土手を鮮やかな赤色で囲んでいるほか、とくに天満宮の鳥居を抜けて本殿に至る正面の参道の橋の両側に密集しており、ここを通り抜け、この中心部から左右に広がる八条が池を眺める景色も抜群です。このつつじの開花はかなり長く続き、この時期は連休前後にも当たるため、毎年多くの観光客を集めています。
 4月26日の日曜日の午後、久しぶりに長岡天満宮境内に接した公園を通って、特養ホーム「天神の杜」を訪問しました。養母は昼寝中で、しばらく様子を見ただけでしたが、新たに100歳に達した別の入居者(50人のうち3番目)の祝賀パーティーが開かれていて、華やいだ雰囲気が見られました。孫やひ孫を含む20名くらいの親族関係者が集まっておられ、元気なおばあさんの姿をほほえましく拝見しました。幸せな人もあるものです。
 私の養母は、まもなく8月には101歳になるのですが、意識混濁状況で意思疎通ができないとあきらめていましたら、介護スタフの若い女性の方から、本人に年はいくつと聞いたら100歳だといったということを聞いて、驚きました。ほとんど耳は聞こえず、ものも言えないはずなのですが、意思疎通ができるとは不思議なものです・・・・。
 帰りに、天満宮の境内を抜けて、八条が池周辺の「つつじ」を鑑賞しました。携帯電話のカメラで下手な写真を何枚かとりましたので、その一枚をブログの「ロゴ」の画像に入れました。平日はもっと静かに見ることができますので、来年も何とか元気でこの「つつじ」を鑑賞したいものです。
 
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by nakayama_kenichi | 2008-04-28 10:39

2度目の文楽

 今回も大阪の石川元也弁護士のお誘いで、4月24日、日本橋の国立文楽劇場において、平成20年4月文楽公演の第1部を鑑賞する機会がありました。これが2度目ですが、午後4時に開演し、短い夕食休憩を挟んで、午後8時20分に終わるという長時間に及ぶもので、すっかり「文楽人形劇」の世界に陶酔しました。
 演目の第1は、「競(はでくらべ)伊勢物語」で、「玉水渕の段」では、皇位継承争いを背景として、娘信夫が夫豆四郎のために、饒八が川の中から拾い出した三種の神器のひとつを奪った際に着物の袖を引きちぎられという経緯が演出されました。若い2人の人形の明るい表情からは、後の悲劇は全く予測されませんでした。
 ところが、「春日村の段」では、娘信夫の母である老婆小よしのもとに、かつて隣人であり今は貴族となっている紀有常が訪れ、本当は自分の娘である信夫を井筒姫の身代わりとして、しかも悲惨なことに夫の豆四郎ととに首を打ち、その首を三種の神器の一つとともにお上に献上するという真意を老婆小よしには告げないままに、盾で隠し、娘の最後の琴の演奏を待って刀を下ろすという悲惨な場面が繰り広げられました。
 人形とはいえ、自殺や殺人の場面には、目を覆いたくなるような現実感がありましたが、それ以上に、そのような悲惨な行為に有常を追いやったものが、実は皇位継承にからむ「忠義」という絶対的価値であったということを改めて思い知らされました。
 演目の第2は、「勧進帳」で、兄頼朝に負われる身となった義経が、家来とともに安宅の関を越える際に、主君の危機に智略と勇気を振り絞って立ち向かう弁慶の縦横無人の立ち居振る舞いが圧巻でした。人形と人形師と語り手とが融合し一体となった伝統的な芸術の魅力に取り付かれ、今から次回の公演を楽しみにしています。
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by nakayama_kenichi | 2008-04-25 11:59

乾長昭翁之碑

 若狭の賢者といわれた乾長昭氏の旧住家「仙崖荘」の跡地に、石碑が建てられることになり、4月20日の午後2時から、その除幕式が行われ、私も出席しました。
 神主による修祓の儀の後、除幕が行われ、和歌と碑文の朗読の後、再び神主による降神の儀、祝詞奏上、昇神の儀、代表者による玉串奉奠、3名の女性による詩吟朗詠と続いて、挨拶、祝辞という順序で、約1時間の除幕式が無事に終わりました。
 碑文の表示は以下の通りです

      乾 長 昭 翁 之 碑

   大正年代より郷民達の敬愛の念篤く昭和二年仙崖荘を
   造営し永年に亘り神・仏・儒教を説き後年若狭の賢者
   と称賛され今も尚遺徳を偲ぶ
   永年風雪に耐えた同荘も疲弊甚だしく解体するも遺訓・
   遺跡など末永く継承し管理する
       
      平成二十年四月吉日        顕彰会

 集まられたのは、約30名に及び、そのほとんどがかつての乾長昭翁の講義を仙崖荘で聞いた門人達の子孫に当たる方々で、今でもなお親が受けた遺徳を決して忘れず、自発的かつ献身的に「仙崖荘」跡地に集い、心をひとつにして石碑の除幕式に結集するという姿は、ほかに類例のない位に感激的な場面で、嬉し涙を共にした次第です。
 
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by nakayama_kenichi | 2008-04-22 14:11

EU統合と人権保障

 4月18日の午後、立命館大學の衣笠キャンパスで、「EU統合と人権保障」をテーマとしたシンポジウムが開かれましたので、雨の中を出席しました。報告者の一人であるドイツのフライブルグから来られたアルビン・エーザー教授に再会するというのもひとつの目的でした。
 シンポジウムでは、EU(欧州連合)の加盟国が6カ国から27カ国に増え、EC(欧州評議会)が47カ国にまで広がった現在に至るまでの「欧州統合」の歴史と現状が、経済問題から次第に平和と民主主義、とくに人権保障を主題とする方向に動きつつあるという観点から、欧州人権裁判所の活動や刑法および刑事手続における人権保障をめぐる問題が提起され、大いに啓発されました。とくに、各国の制度の相違や大陸法とコモンローとの相違を調節して行く上でデリケートな問題があることが分かりましたが、人権保障の観点から欧州を統合するという方向性は、日本を含むアジアの将来を考えるに当たって、実に先見的なモデルに値することを痛感した次第です。
 個人的には、エーザー教授ご夫妻との再会を果したことも、嬉しい成果でした。古い日記によりますと、私が最後にドイツのフライブルグでエーザー教授にお会いしたのは、1985年(昭和60年)12月7日ですので、もう20年以上経過しています。その日は、エーザー教授が私をホテルから自宅まで案内された後、郊外のレストランで夕食の招待を受けました。奥様が大の日本びいきで、片言の日本語を話されたと記しています。ご夫妻がかつて来日されたときは、私どもが嵐山にお連れしたことも覚えておられました。
 なお、ドイツ語が苦手な私も、当時は研究所で日本の刑法について講演し(ただし英語で)、671DMの講演料をもらったという記述もあります。
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by nakayama_kenichi | 2008-04-19 21:52

教え子の旅立ち

 私は、大學の教職を離れてから、もう10年以上になりますが、それまでの幾つかの大學に在職していた時代の古い教え子たちのうち、ようやく自立してこの春に新しく旅立って行く人が何人かあります。彼らは、もう30-40歳で、新人とはいえませんが、初志を貫徹するまでにかなりの年数がかかり、種々の苦労を重ねた上での、新しい旅立ちなのです。かつての教師としては、こんなに嬉しいことはありません。
 一人目は、大学を卒業後、しばらくは旧司法試験の受験勉強をしていましたが、うまく行かず、方向転換をして、大学院に進学して臨床心理士の資格を獲得した後、九州地方の病院に職が見つかって、京都を離れました。
 二人目は、大學を卒業後、大学院を終了しても定職が見つからず、いくつかの大學の非常勤講師をしていましたが、このたび東北地方の大學の専任教員としての採用が決まり、長く住み慣れた大阪を離れました。
 三人目は、大學を卒業後、旧司法試験を目指していましたが、うまく行かず、東京の大学の法科大学院に入り、終了後の新司法試験に合格し、この春から弁護士としての活動を開始しようとしています。
 そして、四人目は、大學を卒業後、会社に就職していましたが、婚期を逸しかけたところを何かのご縁で年上の男性とめぐり合い、めでたく結婚し、今頃はハネムーンから帰って新しい家庭生活を始めていることと思います。
 そのほか、いまだ苦労を重ねている教え子も残っていますが、彼らの努力が報われ、幸運の女神が舞い降りてくることを願ってやみません。
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by nakayama_kenichi | 2008-04-17 16:51
 立川の自衛隊官舎に立ち入ってビラを配布したことが住居侵入罪に問われた事件については、このブログでも何回か取り上げましたが、最高裁の判決が4月11日に出され、結局、有罪が確定しました。憲法論としては、表現の自由は憲法で無条件に保障されたものではないとし、官舎は一般人が自由に出入りできる場所ではなく、管理者の意思に反して立ち入ることは住民の私生活の平穏を侵害するので処罰は違憲でないというのです。
 住居侵入罪の成否に関する精密な批判的分析が必要なことはいうまでもありませんが、ここでは、新聞の論調が明らかに批判的であることに注目する必要があります。忘れてしまわないように、4月12日の朝日新聞の社説の一節を引用しておきます。
 「ビラが配られたのは、自衛隊のイラク派遣をめぐって世論が割れ、様々な論議が起きていたころだ。自衛官やその家族が派遣反対のビラをドアの新聞受けから入れられて動揺したり、いやな思いをしたりしたというのは、その通りかもしれない。知らない人が勝手に敷地に入ってくれば、不安になるのも無理はない。・・・しかし、だからといって、いきなり逮捕し、2ヶ月余りも勾留したあげくに刑事罰を科さなければならないほど悪質なことなのだろうか。度を超した捜査や起訴をそのまま追認した最高裁には、失望してしまった。
 気がかりなのは、今回の最高裁判決で、ビラ配りなどがますますやりにくくなり、ひいては様々な考えを伝える手だてが狭まっていくのではないか、ということだ。これでは社会が縮みこまってしまう。・・・だれもが自由に語り、自分の意思を自由に伝えることが出来てこそ、民主主義的な社会といえる。そこでは、自分とは異なる意見や価値観を認め合い、耳を傾けることも求められている。そんな寛容さや度量を社会として大切にして行きたい」。
 さらに、この最高裁判決がビラ配りにまで刑事罰まで科したことは、われわれの社会常識とずれているのではないかという指摘もなされています(北海道新聞)。
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by nakayama_kenichi | 2008-04-13 09:56

亡妻の3回忌

 亡妻の命日に当たる4月16日が近づいてきました。あれからもうまる2年を経過し、今年の命日は3回忌ということになります。私自身も、家内が亡くなった当初の2.、3ヶ月ほどは、何も手につかず、いっさいを投げ出し、放心状態に陥っていましたが、徐々に回復し、ようやく何とか一人で生きて行く覚悟をきめました。しかし、どうしても埋め合わせることができない淋しさは、今後も変わることなく続いて行くことになります。
 家内の母は、100歳に達して、今も近くの「天神の杜」という特別養護老人ホームに入居していますが、家内の死を伝えないうちに意識が混濁し、笑顔はありますが、人の見分けがつかなくなりました。しかし、危険な状態から挽回する生命力には驚くべきものがあります。仮に終末期が訪れたとしても、おそらくは「安らかな死」が待っているだろうと思います。
 ところが、亡妻の場合は、病気による死で、しかも病名がすい臓がんでしたので、末期はとくに激しい苦痛に悩まされていました。最後まで意識がはっきりしていましたので、苦痛を緩和するために医師が処方してくれた麻薬を飲むことを拒否し、苦痛と戦いながらの最後でした。それが「安らかな死」とは程遠い点に悲運の定めがあり、その苦痛を分かち合えなかった点に自責の念が残ります。
 最近読んだ日野原博士の本の中には、人工的な延命よりも、むしろ苦痛の緩和によって「安らかな死」を迎えさせるのが医師の使命であるという指摘がありますが、あえて苦痛と戦う方法を選んだ亡妻の自己決定を尊重したということで、後悔と自責の念をなだめています。人の死は不可避とはいえ、できれば「安らかな死」を望みたいものです。
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by nakayama_kenichi | 2008-04-11 21:24

赤崎超老人の般若心経

 このブログでも触れたことのある若狭小浜在住の超老人、赤崎全二氏(91歳)から、最近便りがあり、4月20日に予定されている「仙崖荘」跡地に建立されたばかりの「若狭の賢者」の石碑の序幕式には是非出席したい旨の丁寧なご挨拶とともに、小箱に入った手書きの「般若心経」が送られてきました。
 これは、4つの米粒の上に「般」「若」「心」「経」の4つの細かい文字を筆書きしたものですが、2008年3月末日 作 91歳 赤崎全二という署名が入っています。
 その箱の裏側には、以下のような趣意書が付されていますので、ご紹介します。

              趣意書
     人の世は川の逝水の如く無常に過ぎ去って行きます。
     今回老生卒壽を越え其の感謝の一端として、40年前を
     想起して、蛮勇を振るい、米4粒に般若心経と、不充分
     乍ら復元に至りました。茲に想うに、若い皆々様には遥
     か超越され老生より長生きされん事を祈念して記銘致し、
     御笑納下されは本懐の至りで有ります。
                          合掌
         平成20年3月末日
     各位殿
                         赤崎全二
 あまり上手く撮れませんでしたが、その写真を添付します。
 赤崎超老人の卒壽を心からお祝いし、その元気なパワーにあやかりたいと思います。

  
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by nakayama_kenichi | 2008-04-10 11:55
 ハーケン・クロイツ(Hakenkreuz)とは、「鉤十字」、つまりナチスの記章のことを意味します。今の若い人は余り知らないでしょうが、戦前はナチスのヒットラーが制服の左腕に巻いていた腕章として有名なものでした。
 最近、古い「立命館学誌」(182号、昭和10年6月12日発行)に、当時(昭和8年)瀧川事件で京大を追われた瀧川幸辰教授が寄稿している文章が残されていることを知り、そのコピーをもらいました。その題名が「ハーケン・クロイツの呪い」というものです。
 瀧川教授は京大を追われましたが、立命館大学では講義されていたらしく、本稿の最初には、夜間部入学生を迎える辞として、「困難に居てしかも、結果は人並いや人並以上なものを得るというのが、真に困難に処する道であります。諸君は決して自己弁解に陥ってはいけない。同情は人に対してするもので己に対してするものではありません」と励ましておられます。
 ところで、瀧川教授は、ハーケン・クロイツの呪いが、共産党とユダヤ人の排斥に向けられており、当時のドイツの大学から追放されたのは、ユダヤ人とナチス国家を支持する証拠を積極的に示さない人たち―主として社会民主党に属する人々であったとし、著明な学者では、カントロヴィッツ、ケルゼン、ラートブルフ、ジンツハイマーらが被追放者の中に含まれており、このうち、ラートブルフを除けば明らかにユダヤ人であったといわれています。
 世人はユダヤ人を亡国の民と呼びますが、当時のドイツの大学には、種々の不利益な取扱いを受けながらも、各分野で傑出したユダヤ人の学者が多かったといわれています。しかし、とくにドイツ南部ではユダヤ人排斥の傾向が根強く、すでにナチス以前から、ハーケン・クロイツの描かれた電柱が多く見られ、本文にもその写真が掲げられています。教授によれば、それは「災厄および悪魔を払う記号」ではなく、むしろ災厄および悪魔の象徴に他ならないのです。
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by nakayama_kenichi | 2008-04-07 14:30

吉川少年の反骨精神

 吉川経夫先生は2006年8月31日に82歳で亡くなられました。そのとき、このブログで追悼文を書きました。今日、法政大学の機関誌『法学志林』(105巻4号)が送られてきましたが、それが吉川先生の追悼号になっています。私も寄稿しましたが(「吉川先生と刑法改正問題」)、ここでは、小田中聡樹さんの「追悼の辞」のなかで紹介されている吉川先生の戦時中の旧制中学時代の体験記のなかから、先生の反骨精神を示すエピソードを紹介したいと思います。
 「私は、1940年に、京都府立一中(現府立洛北高校)に転入学しました。学校の中では、弱冠20余歳の配属将校が校長を凌ぐ権力を持ち、暴君のように振舞っていました。配属将校は、常にわれわれ生徒を「貴様」と呼び、「天皇陛下のために死ね」という教育を執拗に繰り返し、これに反発していた私は、彼から毎週のように軍隊さながらの往復ビンタを浴びせられました。また、1941年4月に九州から転任してきた校長が「御真影奉安殿」なるものの新築計画を立て、各家庭に一口10円(現在の価値では10万円位)の寄付を強要したことがありました。当時寄付を拒否したのは、全校1200余名のうち、朝鮮出身のR君と私だけでした。早速配属将校がやってきて、「貴様は何故寄付しないのか」と詰問しました。私が金属が不足で供出させられているときに新たに鉄筋コンクリートを使って奉安殿を造ることは適当とは思われないからと答えたところ、彼は、「問答無用!不忠者めが。貴様はアカか」と言ってまた容赦のない往復ビンタを浴びせました。それ以後、私は、「思想の悪い奴」というレッテルを貼られることになりました・・・・」。
 その先生が、よく無事に三高から東大に行けたものだなあと感心する次第です。
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by nakayama_kenichi | 2008-04-06 20:35