最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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今年の大晦日

 2007年の大晦日は、何よりも前日以来の寒波襲来で、すっかりちじこまってしまいました。朝は氷点下となり、風もかなり吹いていましたが、やがて太陽が出て明るくなり、天気は回復しつつあります。
 この年末も、30日の夜、カナダから娘と2人の孫が帰ってきましたが、カナダはもっと寒いので、寒さはあまり気にならないとのことです。
 家事は娘がやってくれるので、31日は朝食後から、机に向かって原稿を書いています。
孫の2人も、それぞれ大學と高校の受験を控えて、神妙に勉強しているようです。
 さて、今年を振り返って見ますと、まず体の面では、2月頃に、試みに検査をしたら前立腺がんの疑いが濃厚となり、桂病院の泌尿器科の野々村医師の診断で、ホルモン・放射線治療をするため、かなりの期間、集中的に通院したことが思い出されます。野々村先生は、私の息子と同世代で、京大医学部の学生時代に法学部の私の刑法の講義を盗聴したという奇縁も明らになり、不思議なご縁があるものだと思いました。がんの治療は治まり、今は前立腺肥大の服薬治療を続けています。
 研究の面では、毎月3回の研究会になるべく休まないように努力しましたが、これも長年の習慣の結果です。論文は少なくなりましたが、ブログは一年間休まずに続けることができました。
 大阪の伊賀・笠松法律事務所に出かける回数は減りましたが、若い「梁龍成」君という新人弁護士と2人の若い女性事務員も加わって、事務所はすっかり気分一新し、年末の忘年会は盛り上がりました。いま、危険運転致傷罪に問われた被告人の弁護活動に参加しています。
 また、日弁連の刑事法制委員会に出席するため、東京にも何回か出かけました。
 100歳のおばあちゃんと仏前の家内の写真も大切にしています。
 今日で、2007年のブログも終わります。
 
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by nakayama_kenichi | 2007-12-31 15:13

戸別訪問違憲判決

 暮れも押し詰まった日、ある元裁判官のA氏から手紙が送られてきました。この方は、昭和43年(1968年)当時、公職選挙法上の戸別訪問罪に関する事件で無罪判決を書いた勇気のある裁判官で、1984年5月発行の雑誌「篝火」(かがり火)に寄稿された「思い出の裁判」と題する文章のコピーが封入されていました。この雑誌は、青法協裁判官部会の機関誌として、歴史的にも貴重なものです。
 私自身も、選挙犯罪の中で「戸別訪問罪」に注目し、このA裁判官の書かれた格調高い無罪判決にも著書の中で触れていましたので、一挙に親近感が湧いてきました。
 この寄稿文の中には、戸別訪問の禁止を合憲とする最高裁判所の判決(昭和42年)が出た直後に、和歌山の田舎の妙寺簡裁の若い裁判官が、あえて正面から違憲判決を書くに至った経緯が、揺れる心理と苦悩とともに詳細に描かれています。
 無罪判決後の後日談にも興味がありますが、和歌山の所長から「名判決ですね」といわれたときは嬉しかったこと、この無罪判決が控訴審で破棄されてしまい、非難を浴びたものの、その後も下級審で堂々とした違憲判決がいくつか出たこと、そしてこれらの裁判官はいずれも裁判官懇話会の熱心な支持者であったことが記されています。
 さらに、当時の朝日新聞の「標的」という小さなコラムの中に、戸別訪問の自由化を唱える理由として、「われわれ選挙民が候補者に聞きたいことが山ほどある」という指摘があったことから、裁判官は戸別訪問の問題を、選挙運動をする側の自由としてだけとらえ、これを選挙する側の国民の権利の問題としてとらえていないという点で反省を迫られたことも述懐されており、この点は私自身も全く同感です。
 しかし、残念なことに、この戸別訪問罪をめぐる問題は、その後は沈静化したまま、現在に至っています。そして、この雑誌「篝火」や裁判官懇話会などがその後どうなったのかという点も気になるところです。
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by nakayama_kenichi | 2007-12-30 19:45

大学の自治はどこへ

 最近の新聞記事(朝日12月24日)の中に、文科省の文部科学次官だった人が山形大学の学長に就任して4ヶ月を経過し、混乱が収まり学内も好意的であるとの報道があり、驚きました。実は私自身、山形大學では、文部官僚が投票で学内候補に敗れながら学長選考会議で逆転して学長に選ばれたという経過を知りませんでしたので、二重に驚いた次第です。
 かつての大学では、教授会自治が確立していましたので、学内選挙で選ばれた人が学長になることは、大学自治の当然の内容として誰も疑わなかったのです。それは教授人事にも及び、かの「瀧川事件」の歴史的な教訓も、まさにそこにあったのです。
 しかし、今や「独立行政法人」化した国立大学では、学長は「(学部長や学外者らで作る)学長選考会議が決める」ことになったのです。ただし、最近までは、ほとんどの国立大学が、学内選挙による投票(学内意向投票)で1位になった人を学長に選ぶという方法をとってきたといわれています。
 ところが、学長選考会議自体に学外者が入り、学長候補者にも学外者が入ってくると、学外者が選挙で選ばれる可能性だけでなく、山形大学のように、官僚、しかも文科省出身の官僚が学長に「天下り」するケースが現に出てきており、しかもそれで学内もまるく収まるというのですから、開いた口が塞がらないというのが、率直な印象です。そして、この前例が広がる可能性があるとしますと、国と一線を画するという大学自治の伝統はまさに風前のともし火といわなければなりません。
 かつて、瀧川事件を経験した戦後の京都大学では、佐伯教授が、まず第1にやることは大學の自治を回復することであり、文部省に大學の自治を認めるという一札をとってくることだといわれていたことを想起する必要があるでしょう(松尾・瀧川事件、261頁)。
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by nakayama_kenichi | 2007-12-27 20:55

清水の思い出

 12月13日に開かれた「阪神二期生の会」については、ブログでも取り上げましたが、その折に名古屋から参加していたY君から、清水高等商船学校在学中に彼が書きとめていた「日記」の一部を送ってもらいましたので、あらためて60年以上も前に清水の地で経験した昔の思い出を新たにしました。当時は、生徒は「修養日誌」なるものを書かされていたのですが、それではなく、いわば裏日記の類のものです。
 その中には、「西郷信綱教授を憶う」と題する一文が含まれていますが、これは当時の西郷教授の国語の講義をめぐるかなり詳しい随想録で、よく観察されているなあと感心しました。私自身も、英語を含む文科系の科目には興味があり、熱心に聴いたつもりですが、その内容などはすっかり忘れてしまっています。ところが、この日記には、西郷教授の風貌や話し方をはじめ、講義のテーマや内容に至るまで、具体的に詳しく叙述されているのです。教授が熊本の五高時代のことも話されたといいます。また「高瀬舟」の講義のあと、当時の世界情勢についても語られ、また今ころ勉強(座学)を行っているのは、陸海軍諸学校を除いては本校のみであること、諸君は維新の青年の如く野心と情熱をもって勉強せよと励まされたといいます。そして、戦後は、文学の講義では宮本百合子の「伸子」を論じるかたわら、放課後には、史的唯物論の解説までなされたという話まで付け加えられています。
 この西郷教授は、席上過程最後の講義の際に、「豊かなる人生を、それは、常に問題を持ち続けることである」という言葉を残され、それが現在でもY君の脳裡の片隅をはなれないと述懐されています。
 そのほか、哲学を講じた堀教授が大阪高校(阪大)に転勤される話なども、私にとっては初耳であり、当時の高等商船学校の教授陣の一覧表やその後の経緯など、まだまだ知りたいことが多いことを痛感しました。因みに、私自身は、海法(国際法)の大友教授とは、その後静岡大学でお会いしたことがあります。
 
 
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by nakayama_kenichi | 2007-12-23 22:22

今年の私の業績

 ブログを書き始めてから、毎年12月には、その年の研究業績を反省をこめて記録しておくことにしていますので、2007年中に公表された私の業績をまとめておきます。
 
 ① 罰金刑の新設等のための刑事法の整備について(3)
    ―法制審議会刑事法(財産刑関係)部会の議事録の検討― 判例時報1948号 1月
 ② 罰金刑の新設等のための刑事法の整備について(4・完)
    ―法制審議会刑事法(財産刑関係)部会の議事録の検討― 判例時報1949号 1月
 ③ 触法精神障害者問題に対する「日精協」の対応(1)       精神医療45号  1月
 ④ 特集「心神喪失者等医療観察法の展望」(刑事法学の動き)  法律時報79巻4号4月
 ⑤ 触法精神障害者問題に対する「日精協」の対応(2)       精神医療46号  4月
 ⑥ 戸別訪問罪の性格と保護法益                    判例時報1957号 4月
 ⑦ 触法精神障害者問題に対する「日精協」の対応(3)       精神医療47号   7月
 ⑧ 『口述刑法総論』 補訂2版                成文堂      7月         ⑨ 触法精神障害者問題に対する「日精協」の対応(4)       精神医療48号  10月   ⑩ 友添太郎「ビラの配布と住居侵入罪」(刑事法学の動き)    法律時報79巻12号11月 ⑪ 『定刻主義者の歩み』                          成文堂       11月 

  以上ですが、これまでの蓄積のおかげで、ようやく面目を保ったというところです。しかし、外国語の引用のない論文ばかりだという批判(松宮)を甘受しなければなりません。ただ、ブログを何とか書き続けることができただけでも、良かったと自己満足しています。
 論文集の出版は、現在印刷中で、来年に持ち越しとなりました。                                          
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by nakayama_kenichi | 2007-12-21 21:20

トンボ鉛筆のB

 先日の瀧川ゼミ生の会で話題になった「トンボ鉛筆のB」にかかわる思い出話の真相を当事者が手紙で知らせてくれましたので、当時の女子学生の「証言」の一部を紹介しておきます。
 「昭和37年3月1日。京都大学入学試験当日の朝。先日来の雪がまだ残ったぬかるんだ時計台前広場に集まった法学部受験生の中に私はいました。男子学生ばかりの中、緊張と寒さでがたがた震えるばかり。やがて列は動き出し法経大教室へと向かいました。階段教室の教壇前の試験監督官の中に中山先生がおられました。でもこれだけでは思い出にはなりません。そこにちょっとした事件が起きました。
 教室でたった一人の女子学生が、筆箱を落としたようだと言い出したのです。試験開始まで時間は迫っています。中山先生は女子学生の周りの学生から鉛筆を何本かと、けしごむを集めて女子学生に渡そうとしたところ、彼女はとんでもないと言ったのです。『私はトンボ鉛筆のBしか使いません』。なんてわがままなやつ、勝手にしなさいといわれてもよさそうなのに、先生は生協でトンボ鉛筆を6本買ってきて、しかも使えるように削ってあるのを渡してくださったのです。やがて1時限の試験が終わり、先生の監督のお仕事も終わりです。
 教室を出ていく女子学生に、先生は『鉛筆代は、君が京大生になった時でいいからね。私は法学部の中山研一といいます』と言われました。もし私が京大にパスしていなかったらお話は続きません。法学部330人中3名の女子学生の一人になった私は、約束を忘れず中山先生を訪ねてトンボ鉛筆6本分代をお返ししました。お話はこれでお終い?」。
 以上が、彼女の証言なのですが、残念ながら私の方は、ぼんやりと覚えている程度で、明瞭な記憶がないのがもどかしい次第です。それにしても、良いことをしてあげて感謝されたという何かほのぼのした嬉しい気分になりました。
 そのかつての若かった女子学生も、今や4人の孫のいる年配女性で、一方当時まだ30歳台の若手助教授だった私も今や80歳を越えました。これは45年も前の「美談」とでもいえるものでしょうか。
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by nakayama_kenichi | 2007-12-20 11:43

表現の自由の優越的地位

 最近、政党ビラを共同住宅内のポストに投函する行為が、住居侵入罪に当たるかという問題が裁判で深刻に争われています。立川自衛隊宿舎の事件も、葛飾のマンション事件も、第1審は無罪判決であったものが、第2審(控訴審)では、いずれも逆転して有罪判決が出ています。
 専門的な観点からの問題は多くありますが、ここでは、これらの行為が、政治的な表現の自由に当たる行為であり、とくに立川事件の第1審判決が、はっきりと、「被告人らによるビラの投函自体は、憲法21条1項の保障する政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹をなすものとして、同法22条1項により保障されると解される営業活動の一類型である商業宣伝ビラの投函に比して、いわゆる優越的地位が認められている」と明言していたことを想起する必要があります。
 ところが、実際には、政治的なビラの投函の方だけが嫌疑をかけられて捜査され、有罪の方向に導かれやすいのに対して、その他の商業的な宣伝ビラの方は放任され、ほとんど法的な問題になっていないのが現状です。これでは、上のような格調の高い憲法論議は抽象論の域を出ず、実際には、むしろ逆に、政治的ビラだけが狙われるという「劣悪な地位」にあるということになります。
 せめて、ビラの「内容」とは関係なく、平等に取り扱われることを要求すべきでしょうが、有罪とした控訴審判決は、ビラの内容が政治的(しかも体制批判的)な点を考慮しているように思われます。日本では、選挙の際の個別訪問はいっさい許されず、下級公務員が休日に政治活動をすることも禁止されていますが、西欧の民主主義国ではむしろ許されていることの違いがどこにあるのかを考えてみなければなりません。
 
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by nakayama_kenichi | 2007-12-18 22:01

背景変更と「犬」

 年末が近くなり、紅葉の季節も終わりましたので、ブログの背景を変更することにしました。いろいろ迷いましたが、とりあえず、落ち着いたいブルー系の色を選びました。そしてその際、問題の「犬」の写真も変更しました。
 この写真の犬は、私の亡妻が飼っていた3匹のうち、2番目の犬で、たしか「チェリー」という名だったと思います。今でも、拡大した大きな顔が額に飾られたまま、残されています。
 この犬が元気だった頃は、日当たりの良い庭を走り回っていましたが、おとなしく従順な性格で、小さな2人の子供がよい遊び相手だったことを思い出します。
 私自身は、動物がそれほど好きな方ではなく、子供を動物園に連れて行った際にも、手持ち無沙汰といった具合でした。動物虐待はもってのほかで、動物愛護の精神は持ち合わせているつもりですが、最近の日常生活では、隣の空家に住みついていると思われる野良猫が増えていくのが気がかりです。仏前に供えたご飯を庭に撒いて、雀がつつきにくるのはいいのですが、どうも野良猫が掠め取ろうとしているのは困ったものです。
 これからしばらくの間、ブログを開くたびに、「チェリー」と再会し、かつての同居家族を思い出すことになりそうです。
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by nakayama_kenichi | 2007-12-18 20:20

アロエの花

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 私の家の南側の庭先に、アロエが2本並べて植えられていますが、この冬になって、まずその一つに蕾が出来始め、やがて大きな花が咲き始めました。その後しばらくして、もう一つのアロエからも、同様に蕾ができ、すこし遅れて同じような花が開き、今は2本が負けじと競いあっているようです。
 私は、植物にはあまり知識がないのですが、アロエの花というのはこれまで見たことがなく、めづらしいものが咲いたことに驚いています。花の形などは形容のしようがありませんので、私の携帯電話でとった写真を最初に添付しておきます。
 ところで、私の記憶は薄いのですが、毎週来てもらっているヘルパーさんによりますと、このアロエは、家内がすい臓がんの診断を受けた昨年3月末ころに、とくに注文して庭に植えたもので、特別の手入れもしないのに、立派に成長しただけでなく、独特の美しい花をつけたものだといわれるのです。
 それ以降、毎日、このアロエの花を見るたびに、死亡した家内が花となって咲き、二つの花を懸命に咲かせているような不思議な気持ちが湧いてくるようになりました。二つの花が少し高さが違い、やや距離がありながら、寄り添うようなペアになっているというのも、私どもの関係を暗示する自然の妙なのかもしれません。
 今日は、12月16日で、家内が亡くなった昨年の4月16日から、ちょうど1年8ヶ月に当たることから、いささかセンチメンタルな気分になりました。
 
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by nakayama_kenichi | 2007-12-16 11:06

阪神二期生会(2回目)

 今年の6月に、「高等商船学校の同窓会」について、このブログにも書きましたが、あれからもう半年が過ぎて、12月13日(第2木曜日)に、今年2回目の同窓会が神戸で開かれ、神戸の三ノ宮まで出かけました。
この会は、「阪神二期生会」と名づけられていますが、それは、かつての清水高等商船学校の二期生(1800人)のうち、阪神地区に在住する者で構成する会という意味です。同様の会は、名古屋や東京にもあって、今でも継続しているとのことです。
 われわれ二期生は、1944年(昭和19年)4月に入学し、1945年(昭和20年)8月15日の終戦まで、1年4ヶ月の間、清水の海岸(三保の松原)に建てられた大きな木造校舎(兵舎)で、文字通り青春の苦楽を共にした同期生にあたります。幸い、卒業に至らず中途で終戦となったため、海軍予備少尉となって、南方に輸送船団で出動するという運命的な危機を辛うじて免れたのです。
 阪神二期生会の特色は、阪神の地域に会員の多くが集まっているということもあり、今回も、会員72名のうち、出席者が32名、欠席者が33名という抜群の出席率の良さにあります。その理由としては、一般の同窓会などと違って、いわゆる団結力と一体感が一段と強いこと、それから、年齢がすでに80歳前後であるにもかかわらず、すこぶる元気な人が多いという点があげられるでしょう。昔話に花が咲くなかで、出席者の1人は、「千の風になって」という詩を見事な声で歌いました。私を含めて、妻を亡くした者が数人いるのです・・・。
 前回の会のあと、この会の世話人の1人(彼の息子さんはTBSのキャスターの杉尾氏)と親しくなり、『定刻主義者の歩み』を献呈していたところ、彼がこの会で、私の本の内容の紹介をしてくれた後、私にも発言の機会が与えられました。私はまだ2回目なので、所属分隊の違う同窓生の顔と名前を覚えるのがなかなかなのですが、そのうち多くの皆さんと親しくなるであろうことを期待しています。
 次回の予定もすでに決まっており、2008年6月12日(第2木曜日)に、また元気であれば再会できることを楽しみにしながら、みんなと別れました。
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by nakayama_kenichi | 2007-12-15 10:10