最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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網野正徳寺の住職

 若狭に行った22日の翌23日に、90翁の赤崎さんの案内で、京都府の丹後方面に車で向かい、大江山の山中にある「元伊勢」(三重の伊勢神宮の前身で、内宮と外宮を備えた古風で威厳のある建物と広い境内)を見学し、その規模の雄大さと眼下の景色の美しさに魅せられました。こんなところに伊勢神宮の元となった旧神宮があるとは、思いもよらないことでした。内宮には、乾満昭氏ゆかりの若狭彦神社の祠もありました。
 その後、鬼の看板をいくつも見ながら大江山を下り、日本海岸近くの網野町まで足を伸ばして、「今良寛さん」のおられるという「正徳寺」を訪問しましたが、これがまた聞きしに勝る驚きの連続でした。広い境内には、手入れの行き届いた庭園があり、植木や盆栽が何列にも並び、池には緋鯉が泳いでいましたが、これらの手入れは、すべてこの寺の和尚さん(今村隆之師)がひとりでなさっているとのこと。お寺の建物も、立派なものですが、何よりも人を驚かせるのは、おびただしい彫刻類で、本堂にも庫裡にも木堀りの観音像のほか、布袋さんや達磨さんなどが、さらに衝立、火鉢などがところ狭しと並べられていたことです。絵画ももちろん多く、天井絵や風景画なども、すべて自作のものが2,30点もあるといわれるのです。
 しばらく作品を拝見した後、いよいよ和尚さんに直接お会いすることができました。年は私と同世代の80歳くらいで、初対面とは思えないほど打ち解けて、話の合間に、これまた手製の横笛と尺八を取り出して、即興的に演奏して下さるという有様でした。和尚さんからは墨絵の色紙のほか、数枚の短冊を頂きましたが、その中の2,3の内容を紹介しておきます。
 「人に高下なし 心に高下あり」 「今日も生かされている この不思議」
 「言葉は丸く口とがらすな ものも言いようで角が立つ」
 この和尚さんのお話の中で、とくに印象に残りましたのは、これだけの多くの仕事をしているのは自分ではなく、仏さまが自分にさせておられるのですという趣旨の発言でした。この今良寛さんに、もう一度お会いする機会があればと願いつつ、お寺をあとにしました。
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by nakayama_kenichi | 2007-10-26 21:41

仙崖荘にお別れする会

 10月22日の朝早く家を出て、若狭に向かいました。近江今津から知人の車で若狭町に入り、例の90翁の赤崎さんと昼食を共にした後、午後から町の公民館に向かいました。公民館の一室には、若狭の賢者といわれた乾長昭氏の遺品類が集められていましたが、これらはかつての乾長昭氏の門人達の子孫が「家宝」として大切に保存してきたものを一堂に集めたもので、おびただしい数にのぼります。その中には、大きな横額や掛け軸などのほか、講義録や四書五経などの経典類の古い資料が含まれており、まずはその数量に驚かされました。
 その場では、とても整理できないので、写真を撮って存在を確認し、各家庭ごとに目録を作成してもらうよう、依頼しました。乾長昭氏の蔵書目録を示す資料も出てきましたが、その所在はいまだ判明していない状態です。
 展示会の後、集まった十数人の門人関係者は、そろって乾長昭氏が住み、そこで講義をしていた「仙崖荘」に集まり、この家の主(あるじ)の大きな遺影の前に数々の供え物をして、合掌し、今な亡きなき乾長昭氏と門人達の数奇の因縁を語り合いました。仙崖荘は昭和2年に新築されたもので、ちょうど80年前ということになります。今まで、門人達の子孫によって立派に管理されてきましたが、もう限界にきているので建物は取り壊し、記念碑を立てるということになったのです。
 その後、近くの旅館に一同が集まって夕食の懇親会をし、仙崖荘にお別れをする会の締めくくりが行われましたが、数名の女性を含む十数名の門人関係者の精神的な支柱の強さと一体感に改めて感動しました。女性の皆さんは、今後も乾長昭氏の眠る墓場の清掃を続けていきたいというのですから、全く頭の下がる思いです。その日、私自身は、その旅館に一泊しました。
 なお、当日は福井新聞の記者が取材に来ていましたが、10月24日の福井新聞嶺南版に、教え子の子孫10人が持参した「儒教、仏教説いた若狭の賢人、乾長昭氏の遺品・資料200点」が展示され、住民ら遺徳を偲ぶという記事が出ています。
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by nakayama_kenichi | 2007-10-24 20:45

恩師からの手紙

家内が亡くなって、もう1年を越えましたが、机の引き出しなどの整理をしていましたら、家内が保存していた書類のなかから、古い手紙類が多数出てきて、その中にかつての恩師から頂いた貴重なものが含まれていることを発見しました。
 その中に、旧制静岡高校時代の国文の先生で、滋賀県の同郷でもありました「久沢泰穏先生」から頂いた年賀状と、奥様から家内宛てに頂いた書状があります。久沢先生ご夫妻は、当時すでに静岡の地を離れて、神奈川県の大磯で定年後の生活を送っておられました。
 私宛ての年賀状は、昭和58年(1983年)元旦のもので、以下の句が記されています。

           長らえて 富士ばら開く 年に遇う   九十翁

 もう一通は、同じく昭和58年3月の、奥様から家内宛の書状で、その中にも、何首かの歌が書かれています。
       我が家に誇るものなし さわあれど 教え子すべて 我が宝なり

       京菓子の香わしき味 賞でにつつ 君すこやかなれと ひたすら祈る

       空の青 海のみどりに 初夏の 姿すがしく 富士 浮かび出づ

 現在は、私どもが定年後の生活に入っていますが、教え子に残すような歌の才能がないのが残念です。

       
 
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by nakayama_kenichi | 2007-10-18 11:15

足立政喜さんのこと

 足立政喜さんは、外科のお医者さんで、当地がまだ京都府乙訓郡長岡町の時代から、地域活動の問題に関心を示されていました。磊落な性格の好人物として人気があったのです。医師をやめて、京都市に引っ越されてからは、お会いする機会がなかったのですが、10月5日に永眠されたという悲しい知らせを奥様から受けました(享年83歳)。
 実は、この6月頃に、足立さんの翻訳にかかる大著(『大本教団と日本の超国家主義』Ulrich Lins, Die Omoto-Bewegung und der radikale Nationalisms in Japan,1976) を頂いたばかりなので、驚きましたが、今改めて本書の訳者「あとがき」を見ますと、病床にふしながら、この大著をライフワークとして何とかして完成したいという足立さんの切実な思いが伝わってきます。
 足立さんは、京都府立医大を卒業後、京都第2赤十字病院に外科医として勤務した後、長岡町に足立診療所を開設して医師の仕事をするかたわら、法学への憧れから龍谷大学法学部法学研究科を修了するという精励ぶりでした。
 足立さんが、大本教団に関心をもっておられたことは、私自身は全く知らなかったのですが、本書の「あとがき」のなかには、足立さんの故郷が竹田城のあった竹田町(現在、兵庫県朝来市和田山竹田)にあり、大本教団の出口王仁三郎が竹田城にやってきたのは足立さんが小学3年のときで、通学の途上にあった大本教分教所では毎日早朝から日本陸軍式柔剣道の激しい訓練が行われていて、その光景はまったく軍隊とみまがうばかりであったという記述があります。そして、長ずるにつれて、自分とともに歩んできた昭和戦前史について興味をもち、大本教、出口なお、出口王仁三郎、浅野和三郎などについてもしれなりに見聞を広め、ついに本書に出会い、どうしても翻訳してみたいという衝動が心のなかに沸き立つのを感じ、その後足掛け5年の翻訳作業は苦難の道であったと記されています。
 足立さんの貴重なお仕事に満腔の敬意を表し、ご冥福を祈願します。
 
 
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by nakayama_kenichi | 2007-10-17 21:56

教え子の消息

 9月、10月は、来年度に向けての、入試や就職や転勤の結果が分かる時期に当たります。
私は、いくつかの大学で講義をし、ゼミも担当してきましたので、教え子たちが多く、その消息が気になります。とくに、大学を出てすぐに就職した以外の人で、大学院で勉強し、あるいは司法試験などの資格試験に挑戦している人たちの苦労とその結果には、無関心ではいられません。
 今年は、初志の貫徹を目指してかなり長く苦労した結果、所期の目的を果たしたという知らせがいくつか舞い込みました。嬉しい限りです。
 1人目は、大阪市大時代のゼミ生で、苦労して大学院生活を過ごし、ようやく東北地方の大学の教員に採用されたという男性で、その全力投球と真剣な努力が報われた例として賞賛に値します。
 2人目は、立命館大学法学部の社会人入学から出発し、医療に関心をもって大学院で論文を書くのに長く苦労した結果、ようやく岡山の看護系大学に就職が決まり、すでに働いている女性で、長年の努力と実務経験がきっと生かされるであろうことが期待されます。
 3人目は、これも立命館大学法学部を卒業した後、司法試験を目指していた女性で、中央大学の法科大学院を終了後、今年見事に合格し、いち早くメールが届きました。私もいろいろアドバイスはしましたが、本人の努力に火がともって、輝いている感じです。
 そのほか、立命館大学でのかつての教え子が、時々自宅を訪問して援助してくれるのはまことに有難く、最近は、名古屋に嫁いでいる教え子とも連絡がとれて、久しぶりに再会し、なつかしい昔話をしました。
 この機会に、かつてのゼミ生や受講生から近況を知らせる連絡を待望したいと思います。

 
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by nakayama_kenichi | 2007-10-07 11:32

新人弁護士の入所

 私が現在客員として所属しています大阪の「伊賀・笠松法律事務所」に、この10月から若い新人弁護士が入所しました。在日朝鮮3世の梁(やん)君です。35歳の若さです。
 不思議なもので、彼が入所してから、事務所の雰囲気が明らかに変わったことを実感しています。若い人材の入所によって、事務所全体に変化が生じ、明らかに若返ったという効果を発揮しています。
 私は別格で80歳ですが、伊賀氏は59歳、笠松氏は53歳、そして梁君が35歳というのですから、バランスのとれた年齢構成だといってよいでしょう。
 私自身は、年齢には関係なく誰とも付き合っていける方なのですが、最初から梁君のことが気に入り、何でも遠慮なく話し合っています。能力があるのはもちろんですが、礼儀作法も心得たサービス精神の持主で、貴重な人材です。最近は、いわゆる経営弁護士事務所を希望するものが多いといわれている中にあって、彼はあえて市民のための弁護士事務所として、この事務所への入所を積極的に希望したのです。
 過日、梁君の歓迎会があったのですが、午後6時からの予定が、事務所の担当事件に関する予想外の事務処理が長引き、結局、料理店に全員集合したのが9時前となり、おかげで帰宅がずいぶん遅くなりました。定刻主義者としては、遺憾といわざるを得ませんが、予想しない緊急状態としてやむをえないと納得しました。
 私自身は、ほとんど弁護士の仕事をしていませんが、今、危険運転致傷罪に関わる刑事事件の弁護団に加わって、かなり熱心に弁護活動をしています。目撃証人に対する補充質問も始めて経験しました。
 事務所としては、来年、市民と対話する公開の集会を開く予定とのことです。事務所の発展を応援し、とくに梁君の成長を期待したいものです。
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by nakayama_kenichi | 2007-10-04 21:15