最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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靖国参拝と天皇の対応

 靖国神社の参拝問題は、現在は平静化していますが、いずれまた再燃することが予測されます。私自身は、もちろん内閣総理大臣の靖国神社参拝には反対ですが、この問題を考える際に、天皇がとってきた対応にもっと注目する必要があるように思うのです。
 昭和天皇は、まさにその人のために命を捧げた「朕が忠勇なる戦死者」をとむらう靖国神社に参拝することには理由があり、現に1975年(昭和50年)11月21日までは、欠かさずに参拝していましたが、それ以降は、いっさい参拝しなくなったという重大な事情変更があります。
 その理由を昭和天皇自身が明らかにしたことはなかったのですが、実は昭和天皇の側近であった故卜部亮吾氏が残した日記の中に、この点に関連する記録があることが分かりました。それによりますと、2001年7月31日の日記には、「靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」と記載されているというのです。それは、昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示していたと見られる趣旨として、きわめて重要な意味をもっていることは明らかです。そして、明仁天皇も、即位以来一度も靖国神社に参拝したことがないという事実も、これに付け加えておく必要があるでしょう。
 私にとって、不可解なのは、天皇を日本国の象徴としてあがめてやまない内閣総理大臣や閣僚達が、なぜ天皇の御意に召さないことが分かりながらA級戦犯を合祀した靖国神社への参拝に固執するのかという点です。この点をもっと強調すべきであって、そこからは少なくとも1978年のA級戦犯合祀を止めるという合意が出てくるはずだと思うのです。
 なお、たしかな記憶ではありませんが、国旗・国歌法が出来たときも、園遊会の席で、東京都教育委員会の米長邦雄氏(将棋旧名人)が天皇に対してこの法律の趣旨を徹底して行くと上奏したのに対して、天皇の方から強制にわたらないようにとの応答がなされたことを新聞でみたことがあります。むしろ、天皇の方がリベラルなようにさえ思われるほど、この国の為政者の姿勢は明らなに狭隘な権威主義に陥っているように思えてなりません。
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by nakayama_kenichi | 2007-07-24 22:52

コンピュータの手相占い

 7月19日に、カナダから一時帰国している娘と2人の孫(中学生)と一緒に、太秦の広隆寺の弥勒菩薩像を拝顔した後、太秦の映画村を見学しました。35歳の子馬のかわいさがが印象に残りましたが、映画村の中にコンピュータの手相診断をするところがありましたので、始めて試みました。その結果、以下のような判断結果が出ましたので、余興として披露しておきます。私自身は占いを信じるほうではありませんが、当たらずといえども遠からずというところでしょうか。みなさんのご判断にまかせます。
 
 ジョウシキテキ チシキノ ユタカナヒトデ アッサリシタ セイカクデス。ナニゴトニモ、マジメデ チュウジツニ ドリョクスル タイプナノデ ニンゲンカンケイニ タイシテモ シゴトカンケニ オイテモ シンライサレテイル。 ヤヤ クチカズハ スクナイガ シゴト チュウシンニ ナリヤスイ ケイコウナノデ シュウイノヒトニ ハイリョスル ココロガ ヒツヨウデス。
                 ・・・・・ ア ド バ イ ス ・・・・・
 ヒトガヨイノデ シンジヤスイ トコロモミラレル。 トクニ キンセンメンニ タイシテハ チュウイ ヒツヨウデス。 ウンセイハ ツヨイホウデアリ ドリョクスル ココロヲ モッテイルヒトナノデ アンテイシタ ジンセイヲ オクレル。 メグマレタ ウンセイヲ モチアワセ キンウン シゴトウン カナリ ヨイホウデス。

 なお、係りの人が、私の手を見て、小指が他の指から離れる傾向がみられる点は、上からの権威や命令に抵抗する性格の現われだといっていた点も、いささか気になりました。
            
 
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by nakayama_kenichi | 2007-07-19 18:22

歌舞伎の鑑賞

 7月12日の午前11時から、大阪の松竹座で、7月大歌舞伎の演技を鑑賞するという機会に恵まれました。これは、私にとっては思いもよらなかったことですが、大阪の弁護士の石川さんご夫妻が意識的に私を誘って下さったおかげです。
 私にとっては、道頓堀かいわいの雰囲気をはじめ、松竹座の建物の風情、それに満員の観客の笑いとざわめきなど、めずらしいものづくめでしたが、出し物の「鳴神」「橋弁慶」「義経千本桜(渡海屋・大物浦)」の立派な舞台装置と役者の練達した立ち回りと力強い演技力には終始圧倒されました。
 年のせいで少し耳が遠くなり、せりふが聞き取りにくいところもありましたが、石川さんに勧めてもらったイヤホンが舞台の進行経過を要領よく解説してくれるもので、大いに助かりました。
 これまでは、外国に出張したときには、オペラやコンサートを鑑賞する機会はあっても、国内ではほとんどそのような機会がなく、むしろ研究時間を確保するために、意識的に敬遠してきたことを思いますと、もう少し古典的な芸能や文化的なイベントに直接触れる機会を増やす方が望ましいように感じました。 しかし、これも他人まかせという勝手な了見で、石川さんのようなお方にお願いする以外にはありません。
 当日、観劇から帰宅しましたら、早速、熊本の弁護士さんから、7月20日までに迷惑防止条例についての意見書を書いてほしいとのメールが入っていましたので、また原稿の準備と執筆という本来の仕事に立ち帰らなければなりません。
 ただ、今日見た片岡仁左衛門や市川海老蔵の勇姿は心に残っており、とくに片岡幸太郎などの女形の姿態と声が印象的だったことを思い出しています。
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by nakayama_kenichi | 2007-07-12 22:34

条例違反の盗撮行為

 最近、熊本の弁護士から、熊本県の迷惑行為防止条例違反の事件について、相談を受けました。これは、いわゆるプリクラ機を利用中の女子学生の背後から、カメラつき携帯電話をスカートの下方に差し出して、そのスカート内を撮影しようとした行為が、公共の場所において人を著しくしゅう恥させ、又は人に不安を覚えさせるような方法で「卑わいな言動」をしたものとして起訴されている事件です。
 それは、盗撮行為として、文句なしに有罪になりそうに思えるのですが、厳密には、撮影したのではなく、撮影しようとした(被害者は知らずに現場を去り、カメラには何も写っていなかった)という点に問題があります。検察官も、直接「盗撮行為」の規定ではなく、その他の「卑わいな言動」に当たると解しました。これはいわば盗撮行為の未遂に当たる行為ですが、未遂を処罰する規定がありませんので、一般的な「卑わいな言動」の中に含めて処罰することができるかという点が問われているのです。
 私は現在、この問題を検討するために、「迷惑防止条例」に関する文献を集めて勉強をはじめていますが、この条例は、昭和30年代の後半に、東京オリンピックのための治安対策として、いわゆる「ぐれん隊条例」が東京に出来た後、ほとんど各府県で制定されたものです。これらの条例の違反には罰則がついていますので、刑法学者も当然関心を示すべきであったはずですが、ここでも特筆されるのは、佐伯千仭先生が、いちはやく「迷惑防止条例」(立命館法学53号、昭39)という論文を書かれており、軽犯罪法との関係などを含めて、多角的に丹念な検討を加えておられたという歴史的事実です。
 ここでは、佐伯先生が、わいせつに至らない「卑わいな言動」も処罰しようとすれば、単に卑わいな「言葉」だけでも処罰されるおそれがあると警告されていたこと、真の暴力対策は、政治家や財界の有力者がこれを陰に容認助長することをやめ、たとえば脱税の面からの取締は百千の表見的迷惑行為の取締より、その根源をつくのに遥かに有力であろうと指摘されていたことをあげておきます。この事件の帰趨については、また触れることにします。
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by nakayama_kenichi | 2007-07-09 21:48

佐伯先生と宮内先生

 宮内裕先生は、京大法学教授であった1968年(昭和43年)に、留学先のドイツで49歳の若さで急逝された私の先生にあたる人です。その追悼文集(「樅の木」1968年)を見ていましたら、当時の佐伯先生による追憶文の中に、以下のような記述があったことを再発見しましたので、歴史的な事実として、語り伝えておきたいと思います。
 「宮内教授と私とのかかわり合いは、教授の学生時代に始まる。宮内氏を大変可愛がっていた立命館大学の竹田直平教授(現在甲南大学教授)が、素晴らしい学生がいるとご自慢で紹介されたのが始めてであった。宮内氏はいわゆる思想問題で松本高校を中退し、その頃立命館大学の法学部に入っていたのである。しかし、我々が特に親しくなったのは、敗戦後、氏が復員して訪ねてきてくれてからである。復員した氏は、立命館の法学部助手として刑事法と刑事学を研究することになっていたが、その頃、同じく復員してきた平場教授その他の2,3の若手と一緒に、ドイツ語の復習でもしようかということになって、パシュカーニスの「法の一般理論とマルクス主義」を私の私宅で読むことにした。この本は、私達が若い頃―於保・大森・中田の各教授もまだ助手であったし、亡くなった加古祐二郎氏は副手で、いずれもそのメンバーであった―恒藤教授を中心にして、ある年末の休みを期して―それは寒稽古と呼ばれていた―集中的に輪読討論したことがある。私には大変懐かしい本だが、周知のようにやや難解の部類に属する。ところが、宮内君等は、この書物をまるで海綿が水を吸うような早さで読了し吸収していったのである。私には、その流暢なドイツ語の発音がいまも耳に残っている・・・・・・」。
 そこには、宮内先生の面目躍如たる側面が見られますが、それにもまして、パシュカーニスの「法の一般理論とマルクス主義」という本が、すでに戦前から、そして敗戦後はより広く、法学者の間にも専門をこえて読まれていたという事実に驚かされるのです。この本は、私自身にとっても、なつかしい響きのある古典ですが、それ以後は一般にあまり読まれなくなったようです。この機会に、この古い本を探して見たくなりました。
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by nakayama_kenichi | 2007-07-07 09:59
 去る6月24日の日曜日の午後、私がかつて京大に在籍していた当時、事務室や図書室の職員として親交のあった6名の方々が揃って私宅にお見えになりました。しかも、これらの皆さんとは、教員と職員との関係という以上に、京大職員組合の組合員としてもともに活動していたという関係も加わって、親しさが倍増しているのです。
 幸いにも、私の手元には、京大退職時(昭和57年)に「京大職組法学部支部」の皆さんから贈られた寄せ書きが残っていましたので、この証拠品をめぐって話題が広がりました。その寄せ書きの中央には、杉村敏生先生が「新しい職場での奮闘を」と墨書されており、全部で16名の職員の皆さんが餞別の言葉を書き込まれています。その中には、もう亡くなられた方々もおられると聞き、年をとってからも元気で再会できたことを喜び合いました。
 私は、昭和30年に京大助手に採用されて以来、最初から教職員組合に加入し、学問研究とともに組合活動にも参加していました。メーデーなどの行事にも参加しましたし、職員による野球大会にも出た思い出があります(田畑茂二郎先生や奥田昌道さんもご一緒でした)。
 ところが、私が職組の委員長をしていた時期に、新左翼系の学生と職組との間にトラブルがあり、それが原因で、私の刑法の講義を一部の学生が妨害するという事態が発生し、そのために私は正規の講義ができず、学外で有志の学生にゼミ形式の講義をするという変則的な状態に陥ったのです。それが結局は私が京大を去る原因となったのですが、同じ職場にいた職員のみなさんがいまだに昔の親交を忘れず、旧交をあたために見えたことには感謝の言葉もありません。
 なお、学外で講義したときの「テープ」がもとで、「口述刑法各論」(昭和50年)が出来たというのも皮肉な副産物だったと思います。
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by nakayama_kenichi | 2007-07-03 14:51