最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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第85回刑法学会

 5月26日(土)と27日(日)の両日、名古屋の名城大学で、日本刑法学会が開催されました。昨年は、家内の死というショックから出られませんでしたが、今回は思い切って出席しました。名古屋はあまり行ったことがなく、名城大学は始めてで、少し戸惑いましたが、天気も良く、ビズネスホテルには温泉もあったりして、良い経験をしました。
 日本刑法学会は、85回を数えるくらいあって、昭和24年(1949年)に創立されたという古い歴史があります。私自身は、昭和28年に大学を卒業していますので、おそらく昭和30年頃から刑法学会に出ていたと思います。全国学会ですから、地元の関西の先生方のほか、小野清一郎、木村亀二、団藤重光、植松正などの長老格の先生方をお見かけし、ときにはお話を伺う貴重な機会でもありました。ただし、私は、牧野英一先生をお見かけしたことはありません。
 その私が、今80歳にもなって、出席者の名簿を見ても、私よりも年上の先生方が来ておられないのは、何としても淋しい感じがしました。世代の交代とともに、出席会員の数も増えただけでなく、大学の施設も設備も立派になったという印象を深くします。
 学問的な論議とともに、人的な交流を図るというのが学会のメリットですが、今回も私ははじめて接する若い会員の方々と話をするというチャンスに恵まれました。その際、私のこのブログを見たことがあるということが媒介項になっていることを知って、驚きました。私は、もうすでに現役を離れているのですが、若い方々をはげます意味でも、もうしばらくはこのブログを続けたいと思うようになりました。
 ただし、全体的な感想として、最近は学会の結集力と影響力が低下しているのではないかという印象をぬぐうことが出来ず、考えさせられました。
 
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by nakayama_kenichi | 2007-05-27 21:21

竹田直平先生のこと

 竹田直平先生は、1998年(平成10年)3月16日に96歳で亡くなられた著名な刑法学者です。明治生まれの刑法学者には高齢の方が多く、牧野博士の92歳、小野博士の95歳を超えられましたが、佐伯博士の98歳には及びませんでした。ただ、竹田博士には、他の先生方には見られない特異な経歴があり、富山の片田舎で小学校を卒業しただけで、単身京都に上洛し、河上肇博士の門をたたき、その後、独学で各種の資格試験に合格し、立命館大学講師を経て、立命館大学、近畿大学、甲南大学教授を歴任されたというユニークな経歴が目立ちます。
 最近、古い資料の中から、河上肇全集(岩波版)書簡集(1)の中に、竹田先生にかかわる記事を発見しましたので、以下にその内容を引用しておきます。
 ① 大正12年1月14日 大原社会問題研究所内 櫛田民蔵様宛(封書)
   竹田直平氏持参 河上肇
 「拝啓 本日突然別紙の如き紹介状と自筆の手紙を有った青年がいきなり田舎から出て来て私を訪問されました。ご承知の通り私はじきに人にだまされるので私の鑑定は当てになりませぬが、可なり志操堅固に見受けられますので、一応あなたの方にご紹介して見ます。私の考えでは、しばらく研究所の雑用を手伝はして下すって、その余暇に先づ何はさておき外国語の習得をさせたらと思います。折角遠方から来訪されたものをそのままつきはなすのも気の毒ですし、また当地の下宿先へホーツておいて無駄な金を使はすのも痛ましく思いますので、私は兎も角当人が食っていけるだけの仕事を見付ける事が急務のように考えました。それについては、所の方へともかくもお願いして見たいと思ったのです。高野博士とご相談下さいましてもし研究所の方がご都合ができなければ関西大学の事務員にでも採用して頂くことはできますまいか? いきなりあなたの方へ責任を転嫁するやうですがさし当り私によい考えがないので無遠慮ながらご迷惑をかけます。仔細は当人からなほおききとりを願います。匇々頓首」。
 ② 大正14年1月17日 兵庫県武庫郡西ノ宮川尻2572 櫛田民蔵様(封書)
   京都吉田 河上肇
 「拝啓 竹田氏参上ご配慮を辱くいたしましたる由ありがたくお礼を申し上げます。所の方多分駄目だろうとは思いますが、ともかく所長のお帰りまで待たせておきます。そのうちに書生の口を1ヶ所と職業の口を1ヶ所と、ともかく聞いて見やうと思う心当たりがありますから、それを聞き合わすつもりでゐます。さうして何れもこれも駄目なら仕方がありませんから、国へ帰って貰うようにすすめて見ようとかと思っています。ご多忙中ご面倒をもちかけて済みませんが高野博士がお帰りになったらともかく一応のお話をお願いしておきます」。
 なお、以上の書簡集のほかにも、河上肇博士が直接竹田青年に対して、恒藤恭博士(同時同社大学経済学部助教授)の私宅を訪問するようすすめられている自筆の手紙も残されています。そこには未知の向学の青年に対する暖かい思いやりの心がにじんでいます。
 (私も、「竹田直平先生のご逝去を悼む」という小文を書いています。刑法雑誌38巻2号、1999年)。
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by nakayama_kenichi | 2007-05-19 10:31

雨の中の若狭

 今年の2月に「雪の中の若狭」について書きましたが、5月10日の若狭行きは「雨と風」に見舞われました。帰りは、強風のため湖西線が不通になり、逆方向の敦賀行きに乗って、近江塩津から湖東を走る北陸線に乗り換えて、ようやく京都に帰りつきました。しかし、おかげで私の故郷の「余呉湖」のあたりの景色をめずらしく見ることができました。
 今回も、若狭の賢者(乾長昭氏)の旧住居(仙崖壮)や墓の処理や遺品の収集などが話題となりましたが、とくに印象的だったのは、墓石は解体せずに、墓所を今後もお守りしてくださるというご婦人方の強い要望が出たことです。親の世代のご恩をいまだに忘れず、喜んで奉仕して下さる門人方の皆さんには、まことに頭の下がる思いがします。
 秋には、仙崖壮にお別れをする会をした後で、建物を処分し、記念碑を立てるという計画が進んでいますので、これからも若狭に出かける機会が何回もありそうです。
 なお、2月に訪問した際、90歳の赤崎さんが寄せて下さった詩文を、以下に紹介しておきます。門人の長谷さんがこれに作譜して、田辺米子さんと長谷さんの奥さんが吟唱したものを、テープに吹き込んであるそうです。

      題  若狭に明治の賢者   七言絶句(先韻)
         乾氏父子           作 卒寿 赤崎周山

       起  若州 祖神  仕百年( じゃくしゅうのおやがみに つかえてひゃくねん)
       承  春寒 裔孫  拝社前( しゅんかんにえいそん   しゃぜんをたづねる)
       転  碑頌 語時  幾星霜( ひしょう ときをかたらん  いくせいそう)
       結  賢者 遺風  永遠伝( けんじゃのいふう      とこしなえにつたえん)

      平成19年2月吉日
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by nakayama_kenichi | 2007-05-10 21:38

40年の平裁判官

 最近の『青年法律家』という雑誌(青年法律家協会弁護士学者合同部会発行、434号、2007年4月26日)には、24歳から65歳まで約40年間、転勤もせず、裁判長や地裁所長、高裁長官などには一切出世もしない「平の裁判官」としての道を淡々と歩んだ下澤悦夫氏の手記が掲載されています。これはぜひ一読の価値があると思い、紹介することにしました。
 注目すべき多くのことが書かれていますが、ここでは、裁判官の再任・転勤問題について書かれているところを、以下に引用しておきます。
 「裁判官再任問題―転勤問題は、裁判官のあり方を規定する重要な問題です。再任されるかどうか、おそるおそる10年目を迎えるということは、裁判官にとって非常に負担になっています。でありながら、定年までキャアリア裁判官として転勤しながら、昇級していくというキャリアシステムもとっている。そうしたキャアリアシステムをとりながら、10年で再任するかどうかは最高裁の勝手である、というのが最高裁の見解です。これはいいとこどりで、10年の任期で裁判官を排除できるということのメリットと、転勤をさせながら選別ができるというキャリアシステムのメリットの両方を得ているのです。
 ですから私はこれを逆用して、昇級しなくてもいいから転勤しない、という取り組みをしました。平で終わったというのはそういうことです。個人的には非常に良かった。家族が助かった、子どもの転校の回数が減った、そういうメリットを自分のものにしたということです。すべては裏と表があって、私は40年間、平であったということについては、腹が立ちますが、考えようによってはうまくやったなという気もするわけです」。
 判事補から判事への再任が拒否された宮本裁判官は10年でやめて、象徴的な事件となりましたが、下澤裁判官は辞めないで、どんなみすぼらしい形になっても裁判所の中で生き延びようと考えたといわれています。その間、最高裁の雰囲気は変わったが、中身は変わらず、しかし下澤を締め付けないという楽しさがあったと述懐されているのです。
 係属している事件の途中でも、時期がくれば裁判官が変わるというのが常態化している現状の中で、これに抵抗する裁判官もいることに共感し拍手を送りたい気持ちです。
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by nakayama_kenichi | 2007-05-09 22:45
 5月1日の夕方に、亡妻の母(8月で100歳)が入居している特別養護老人ホーム『天神の杜』の創立4周年の祝賀会があり、私も役員の一人(家族会会長)として出席しました。会場のホテル京都エミナース(竹の郷温泉)へは施設から送迎バスで往復しましたが、参加者は、数人の役員のほかは、施設のスタフとボランティアの皆さん方で総勢数十人というにぎやかな集まりでした。しかも、圧倒的に若い女性が多く、華やかな雰囲気にびっくりしました。
 『天神の杜』は、数少ない「ユニット方式」の特養ホームで、50名の定員ですが、スタフは定員を上回り、文字通りの手厚い介護が行われています。場所は、長岡天満宮のすぐ傍で、環境も抜群といえます。入居者は恵まれており、300人もの待機者があるということです。
 パーティでは、まずこの1年間の仕事ぶりの目だったスタフに対する表彰状の授与式から始まり、その後は、広間でバイキング方式の素敵な夕食が出ました。私のような1人者には有難いとひそかに思いました。食事の後は、ビンゴゲームとカラオケなどの余興があり、最後に温泉入浴券の抽選までありましたが、何と私は、ビンゴケームの賞品も入浴券も当たるという幸運に恵まれて悦に入った次第です。
 何人かのスタフの方々と懇談しましたが、どなたもお年寄りの入居者の介護が楽しいといわれていたのには、心から感心し、暖かい感謝の気持ちに包まれました。帰りのバスの中では、月に2回、生花を教えにみえているボランティアの女性と話しましたが、教えつつ教えられることが多くこれからも続けたいといわれていたのが印象的でした。来年の5月1日の5周年の祝賀会にも出たいなあと思いながら、雨の中を帰宅しました。
 
 
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by nakayama_kenichi | 2007-05-02 23:05

原稿の締め切り日

 今日はもう5月1日。久しぶりの雨に庭の木の新緑が鮮やかに映えています。昨4月30日に執筆中の原稿がようやく出来上がったこともあって、今朝の気分は爽快です。
 佐伯千仭先生の追悼論文集の執筆を引き受けたのが2月はじめで、原稿の締め切りは3月末日ということは、一応了解していたのですが、今回は、予想以上に執筆が難航しました。それは、「佐伯刑法学の平野刑法学への影響」というテーマが興味深いものであるにもかかわらず、なかなか問題の中心部に切り込めないという状態のまま執筆が進まなかったという事情があったからです。1人暮らしという生活の変化や前立腺がんの検査・治療という環境もマイナス要因だったことは事実です。
 過日、大阪の石川弁護士に本稿に関連する質問をしましたら、定刻主義者である私がまだ執筆中というのは驚きだというきびしいコメントをもらいました。たしかに、これまで、依頼された原稿で締め切り日を守らなかった経験はほとんどない私としては、今回は何と1ヶ月の遅滞という記録を作ったことになります。それでも、4月30日には脱稿し、5月に入らずににすんだのが、せめてもの救いだったということになります。
 身体的な老化とともに、精神的な老化も進むこと自体は、避けられませんが、少しでもその速度を遅らせるために、新しい工夫が要るように思います。どのような方法でどこまで行けるのかという実験をしてみることも、今後の生き方を考える上に、有益だと考え、当分はまだ諦めずに試行錯誤を繰り返して行くことにしたいと思います。
 
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by nakayama_kenichi | 2007-05-01 14:26