最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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佐伯先生91歳の講演

 佐伯千仭先生を偲ぶ会が2月3日の午後、大阪の弁護士会館で行われることになっています。その日も近づいてきましたが、最近では、佐伯先生のスケールの大きいお人柄やお仕事に関わる逸話などを記録した文章も目につくようになってきています。
 その一つとして、佐伯先生が91歳のご高齢のときに、大阪弁護士会館で講演された記録を入手することができました。これは、1999年(平成11年)9月20日に、「刑事弁護と刑事訴訟法50年」と題する第42回日弁連人権大会プレシンポジウムの際の基調講演の一つとしてなされたもので、講演のテーマは「全面的証拠開示と刑事訴訟法」というものでした。
 この記録は、現在私が所属する事務所の伊賀興一弁護士が、この貴重なシンポジウムの総合司会の役割を果たしたという歴史的な事実とともに、私に知らせるべく送られてきたものです。
 私自身は、この講演の趣旨自体は先生からどこかでお聞きしたような記憶はありましたが、改めて佐伯先生のこの文章に直接触れることによって、その一貫した鋭い論旨とその説得力を支える情熱的な人権感覚に圧倒されてしまいました。先生は、結論として、「法規の明文の根拠がなくても、合理的だと思われる場合には、・・・・裁判所による公判前の証拠開示命令は可能だという方向に裁判所を引っ張って行かねばならないのです」といわれていますが、それは弁護士が裁判所を動かして行くだけの情熱と力量を身につけるべきことを若い弁護士達に訴えられているように思われるのです。
 そして、同じことは、学者の場合にも言えるのでないかと自省している次第です。
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by nakayama_kenichi | 2007-01-30 21:32

京大会館と楽友会館

 昨年1月のブログを見ましたら、1月29日(日)の刑法学会関西部会に出席するために、朝早くから京大会館に出かける途中、鴨川にかかる荒神橋の辺りでしばらく散歩したと書いていました。そして、一年後の今年も1月28日(日)の朝に、ほとんど同じような経路をたどって、1人で、荒神橋周辺の川辺をしばらく散歩し、昔を偲びました。冬の朝は寒いものですが、以前の冬はもっと寒く、京都の雪景色も決して珍しくなかったと記憶しています。
 最近は、関西部会はほとんど京大会館で開かれるのが通例となっていますが、かつては、百万遍から東山通りを南に下がった近衛通りに「京大楽友会館」という施設があり、そこが関西部会をはじめ各種の会合によく使われていたことを思い出します。古い建物でしたが、あたりも静かで、当時としてはモダンな風格を備えた落ち着いた建物でした。そのうえに、京大会館と比べると、所在する場所が分かりやすいのが最大のメリットでしょう。そして、この東山通りにはまだ市電が走っていたという風景も、懐かしく思い出されます。
 当時の楽友会館には、学生の出入りはご法度であったと思いますが、私自身は、学生であった敗戦後の昭和27-8年当時に、瀧川先生の刑法ゼミがこの楽友会館で行われていたという記憶があります。絨毯を敷きつめた廊下や黒塗りのテーブル、椅子などは、当時の素朴な大学のキャンパスの建物には見られない「豪華」なものに思われました。
 今、私の手元には、昭和28年頃、京大3回生当時の瀧川ゼミが楽友会館で行われたことを示す写真が一葉残っていますが、そこには、瀧川先生のほか、8名のゼミ生が写っています。毎年12月にゼミ生の会を開くことになっていますが、その場所は、今は京大会館になっています。
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by nakayama_kenichi | 2007-01-30 10:37

叙勲について

 たまたま約10年前に『ジュリスト』(1097号、1996年)に寄稿した古い「随想」が見つかりましたので、少し長いものですが、ここに転載しておきます。
 かつて所属していた大学から、70歳になるのを機会に、生存者叙勲を受ける意思を確認した上で叙勲対象者名簿を文部省に提出することになっているので、叙勲を受ける意思があるかどうか回答してほしいという依頼があった。叙勲のことなどひとごとだと考えていたが、いざ自分のこととなると真面目に考えなければならなくなった。
 叙勲を受けるかどうかは本人の自由意思によるもので、個人的な選択の問題だとされているのは当然だとしても、そこには本人の意思の尊重という点よりも、むしろ無駄のない事務的な処理や受領者側とのトラブルの回避といった考慮も働いているのではないかと思われる。
 かつては、お上が授ける叙勲を受領しないといったケースはほとんどなかったのではないかと考えられるのであるが、最近は増えているのか、そのあたりの実態を知りたいところである。
 叙勲制度の由来や歴史については、特別の関心をもって調べたことがないので、正確な知識に乏しいが、戦前以来の伝統とスタイルをいまだ色濃く残している分野の一つではないかと思われる。軍人に与えられた勲章は、過去の功績に対する表彰であると同時に、国に対する忠誠心を涵養するものとして積極的に位置づけられていた。しかも、勲章にも軍人の階級による歴然たる差があることが当然視されていたのである。戦後の民主化はこの分野にどのような変化をもたらしたのであろうか。
 私の狭い経験の中でも、戦前の小学校の学年末に成績優秀な生徒に与えられた表彰の制度は、戦後には無くなったと聞いた。しかし、生前に官吏として勤め戦後の昭和22年に亡くなった父には、死後の叙勲として一定の位階が授けられた記憶があり、とくに死後に与えられる叙勲がどのような意味をもつのか、いささか首をかしげる思いであった。
 一般的な叙勲制度は、戦後いったん廃止されたが、昭和36年に復活し、その後は維持され拡大されて現在に至っている。春秋の2回にわたって発表される生存者叙勲の規模は次第に拡大し、対象者とそのランキングについて、関係者のみならず一般の関心も高くなるつつある。叙勲を受けた人を囲む祝賀会が各地で行われ、次回以降の予測まで語られるともいわれる。
 叙勲制度にも意味がないわけではなく、その機会に受賞者の功績をたたえ、受賞者自身にもさらなる研鑽を期待するという効果をもたらすであろうといわれるのであるが、一般的な叙勲者の功績の内容を公平に評価することは不可能であり、70歳になってからも研鑽を続ける人はむしろ稀である。したがって、叙勲の順序やランキングは、過去の地位・身分・肩書・在職期間・年齢などの形式的な基準によらざるをえず、官尊民卑の根強い傾向も容易には改まらない。むしろ叙勲制度は、人の業績の評価を社会への実際の貢献度よりもこれらの形式的な基準によってランキングしてしまうというマイナス面をもっている。70歳になっても本当に研鑽を続ける人は、叙勲などとは本来無関係で特別な関心を示さないのが通常ではないかと思われる。
 勲章の好きな人に勲章を与えるのも善政ではないかという意見もありうるであろうが、私自身はあえてこの流れに竿をさしたい気持である。
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by nakayama_kenichi | 2007-01-25 12:05
 いわゆる「心神喪失者等医療観察法」によって、重大な他害行為を行った精神障害者を検察官の申立てによって裁判所が指定医療機関への入院を決定するという制度ができ、すでに運用が始まっています。それは、従来のような知事の行政命令による「措置入院」とは違い、「司法制度」に組み入れられたことを意味します。
 そこには、多くの問題がありますが、ここでは、一般の精神医療のほかに、とくに「司法精神医療」という言葉がよく使われるようになっていることから、その意味を吟味しておく必要があることを指摘しておきたいと思います。
 司法精神医療(医学)が、司法(刑事)制度という場で行われる医療であるという意味であれば、これまでにも、刑務所内の「矯正医療」のほか、精神鑑定に関わる医療業務がありましたので、これに加わる「指定病院内の医療」ということになるでしょう。
 しかし、問題は、そこで与えられるべき「精神医療の内容」が一般の精神医療の場合と同じなのか、違うとすればどこが違うのかという点にあります。上述した論文の中には、「病状」は一般の精神障害者と変わらないのに「手厚い医療」が必要なのは、対象者の「再発防止」としての精神医療だからといい、さらに、より直裁に「再犯予防」のための医療と明言するものもあります。疾病に起因する暴力行為の評価と防止のための教育効果を持つ医療が一般の精神医療と大きく異なる点であるといわれるのです。そして現に、このような司法精神医学の研究と評価方法の開発に多額の科学研究費が投じられています。
 しかし、その結果として、本法の指定医療機関での入院医療が特化することになれば、退院後、あるいは通院時の処遇を一般の精神医療の現場につなげて社会復帰を図るという努力が後退し、精神医療保健福祉法を土台として精神医療を充実していくという方向にそぐわなくなるのではないかと危惧されます。
 
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by nakayama_kenichi | 2007-01-25 10:47
 いわゆる心神喪失者等医療観察法は、20005年7月に施行されてから、すでに1年半を過ぎましたので、これまで1年間の運用状況の評価がようやく出はじめています。私自身は今、雑誌「法律のひろば」の特集号(2006年12月号)に掲載されている5つの論稿を読んでその内容を検討しているところですが、注目すべき点のいくつかを指摘しておきたいと思います。
 第1は、法務省の中でも、刑事局の論者は、本法による医療が精神保健福祉法上の処遇(措置入院や医療保護入院)に優先するという権威的な立場を固執するのに対して、保護局の論者は、むしろ両者の並立関係を認めるという柔軟な立場にあると思われる点です。ここでは、何よりも対象者の社会復帰にとって最適な医療は何かという観点が必要だというべきでしょう。
 第2は、最高裁の論者が審判手続の運用として、裁判所が審判に当たって、関係者との間に打ち合わせを行い、その場に鑑定人の出席を求め、検察官、付添人等の関係者の問題意識に応えた鑑定を実施することができることを明言している点です。このような姿勢も対象者の社会復帰を念頭においた柔軟な運用方法として評価されてよいでしょう。
 第3は、厚生労働省の論者が本法による医療について、一方ではそれが一般の精神医療と同様であるとしながらも、しかし他方で「手厚い医療」には「リスクアセスメント」が加わると指摘している点です。このような論調は、「再犯防止」のための「司法精神医学」の開発につながる危険があることを十分に警戒する必要があります。
 第4は、この特集には、なぜか「付添人」(弁護士)の論稿が最初から欠けており、そのために、「入院」(56%)と比較して「通院」(25%)の比率がなぜかなり高いのか、審判結果の地域差が何に由来するのかといった興味のある問題点への論及が全く欠落してしまっていることです。そしてさらに、不起訴になった者のほかに、いったん刑事手続に付されて無罪となった者、まして有罪で執行猶予になった者が、なぜ本法の対象とされて「鑑定入院」や「入院」という身柄拘束を受けなければならないのかという本質的な問題も全く論じられていません。これらは、5年後の見直しを含めた立法問題としても、もっと真剣に検討する必要があるというべきでしょう。
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by nakayama_kenichi | 2007-01-21 22:12
 1月14日の午後、大阪本町の会場で、周防正行監督・脚本の『それでもボクはやってない』という映画の試写会に出かける機会がありました。長蛇の列ができるほどの満員の観客の中で、私自身もすっかり魅了され感激しました・・・・・・。
 満員電車で痴漢に間違えられて、逮捕され、留置場に勾留され、検事の取り調べでも無実の主張は認められず、起訴されて、公判に付され、ようやく有利な目撃者があらわれて、無実になるかなと思わせる場面もあり、会場は最後の判決宣告の瞬間までまさに固唾を呑むという緊張した雰囲気に包まれました。そして観客は、知らず知らずのうちに、日本の「刑事裁判」に潜む問題の深刻な奥深さを、迫真的な映像を通じて改めて思い知らされることになったのです。
 周防監督は、試写会後のパネル・ディスカッションンでも、この映画を作った意図を明快に語っておられましたが、その趣旨をご自身のコメントから以下に引用しておくことにします。
 「・・・・疑わしきは罰せずという言葉を聞いたことがあると思います。犯人であるという確かな証拠がない限り、無罪であるということです。ところが現実には、疑わしきは罰せよ、としか思っていないような判決があることを知りました。しかし、それはもしかすると、今現実に日本に生きている多くの人たちの気持ちの反映かもしれません。多くの人にとっては『疑わしきは罰せず』よりも『疑わしきは捕まえといて』の方が本音に近いもかもしれません。しかし、疑われるのが自分自身だったらどうでしょう。『十人の真犯人を逃がすとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ』 人が人を裁いてきた歴史の中から生まれた法格言です。この刑事裁判の原則について今一度考えてみたい。そう思ってこの映画を作りましした」。
 この映画は、1月20日から全国の東宝系ロードショーで公開されますので、一般市民の「刑事裁判」に対する関心を一挙に高めることになると思いますが、法律家を目指すロースクールの院生はもちろんのこと、心ある裁判官や警察官・検察官にも是非みてほしいものです。
 
 
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by nakayama_kenichi | 2007-01-14 21:18

留学生の消息

 私が大学に在籍していた頃には、自分自身の研究にももちろん忙しかったのですが、日本人の院生や助手の人たちとともに、外国人の留学生についても、分け隔てなく、研究の援助とともに勉強の相談にも乗ることが多かったと思います。当時は、泉先生が提供された「泉ハウス」という施設があって、月例の刑法読書会以外に、「小読書会」と称する研究会をほとんど毎週開いて、かなりの若い人が集っていたという記憶があります。
 それ以外にも、私の自宅が熊野神社の近くにありましたので、多くの若い人が出入りして、とくに留学生が気軽に相談に来られる雰囲気があったのではないかと思います。
 当時の日本人の院生諸君は、今はそれぞれの大学に就職して、ほとんどが研究者に育っていますが、留学生は本国に帰って各種の仕事についています。そして、毎年の年賀状によって、その消息を知るのが楽しみになっているのです。
 中国の南京大学の教授になっている解亘君から、この春に講義に来ないかという勧誘があったことについては、このブログでも触れましたが、台湾の出身で、今はアメリカのロスアンジェルスに住んで中国とアメリカにまたがる経済活動を続けている劉宏哲君については、平場、宮内先生を知っている頃の古い留学生なので、まだ当時の知人も多いと思います。昨日、長い国際電話がかかってきて、当時の日本の先生方によろしくとのことでしたので、ご紹介しておきます。アメリカに来られるなら、大歓迎とのことです。
 そのほか、李艶玲さんという中国の女性も、日本に留学後、今は北京の日系企業でで国際人材派遣業務を担当しているとの知らせがありました。これらのかつての留学生とも、できるだけ連絡を保ってゆきたいと念願しています。
 この機会に、古い写真集の中から、家内と一緒に、ハワイからロスに渡って、劉君夫妻と再会し、その後、カナダまで旅行したときの写真を見つけ出し、当時を懐かしく思い出しています。
 
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by nakayama_kenichi | 2007-01-11 10:10

2007年1月9日

 1月9日は私の誕生日に当たります。、昨年の今日のブログに79歳の誕生日のことを書いてから、もう1年を経過し、とうとう80歳の大台にのることになりました。70歳代とはまた一味違った感慨があることも否定できませんが、しかしすぐに平静にもどって、これまで通りの道を、しずかに歩み続けるこになるでしょう。これからは、もう年齢のことは気にしまいと心に思っています。
 それでも、立命館の上田教授からの連絡で、関係者の皆さんが集って80歳のお祝いをしたいというご相談があった様子で、ただ私の家内が昨年亡くなったばかりなので、しばらく時期をずらして、忌明けとなる4月以降に延期したいという趣旨のお話がありました。私自身も、現在はまだ気持ちの整理がついていないことから、ご提案の趣旨を即座に了解しました。しかし、それにしても、どうしても皆さんでお祝いして下さるという変わらぬご好意には、ただ深甚の感謝を申し上げるほかはありません。
 私としても、この機会に、60歳の還暦の際の記録集『一定刻主義者の歩み』と記念文集『余呉の湖』、それから70歳の古稀のときの祝賀会の記録(ビデオ)などを素材にして、80歳に相応しい「自分史」の記録を何らかの形でまとめておきたいと考えています。その際には、このブログを見て下さっている方々からのお声も何らかの形で反映できるようにしたいと思っていますが、これはどうなるか分かりません・・・・・。
 一方、本来の仕事の方も、すでに1月の予定がかなり入っており、13日は大阪で経済刑法研究会、16日は大阪地裁で公判、18日と19日は東京で日弁連の委員会、20日は大阪で刑訴法研究会、27日は判例研究会と刑事法学の動き、といった具合です。できるだけ休まずにこれらの研究会や行事に参加できるよう、体力と気力を維持していかなければなりません。ブログの方も、当分続けるように努めますので、どうかよろしく。
 
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by nakayama_kenichi | 2007-01-09 13:39

私の外遊日記

 ポーランド人の旧友から来た懐かしい手紙を読んで、外国での生活を思い出し、これまでの古い外国留学の体験を記録した数冊のノートを取り出して、拾い読みする機会がありました。私は、普段はまとまった日記をつけたことはないのですが、外国に出たときは欠かさず日記をつけていましたので、その記録がほとんど全部残っています。今これを読み返して見ると、実に懐かしい昔の日々の記憶がよみがえってきます。そして、これらも「自分史」の一部として、できればまとめた記録として残しておきたいと思うようになっています。
 ここでは、とりあえず、私の主要な外国留学の時期と場所を簡単な一覧表にしておきます。
   ① 1974年6月14日ー1976年 9月 6日   ポーランド、東ヨーロッパ
   ② 1977年9月 5日ー1977年11月 3日   ソビエト連邦
   ③ 1985年9月20日ー1985年12月16日   アメリカ、ポーランド、西ドイツ
   ④ 1989年3月30日ー1989年 4月25日   ソビエト連邦
   ⑤ 1989年9月10日-1989年10月20日   ソビエト連邦、オーストリア、ポーランド
   ⑥ 1990年1月28日ー1990年 2月11日   オーストラリア
 以上が、まとまった日記等によって記録化されている外国留学の時期と場所ですが、以上のほかにも、短期の外国訪問はかなり多く、中国(上海、北京)、台湾、カンボジアなども含まれています。そして、以上のような外国留学で得た有益な情報については、その都度、法律雑誌などに紹介の記事を書いています。そのうち、一番まとまったものは、ポーランドへの2年間の留学体験を記録した一冊の著書です(『ポーランドの法と社会ー東ヨーロッパ法の実態研究』(1978年、成文堂)。
 
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by nakayama_kenichi | 2007-01-04 10:28

2007年1月1日

 年が明けて、今日から2007年になりました。
 昨年はまだ家内と一緒の正月でしたが、今年は年賀欠礼の淋しい正月となりました。
 それでも、家内の母のいる老人ホームには、大阪の息子一家4人とカナダから帰っている娘と孫娘を含む7人で訪問し、今年100歳になる予定の老母のおだやかな笑顔に元気づけられて帰りました。かくいう私も、間もなく80歳になる予定の老人です。
 今年は、欠礼をご存じない方から数すくない年賀状がきましたが、その中に、外国郵便で、20年も前のポーランド人の旧友からのものが含まれていました。これは、私のポーランド留学時から知り合った多くの刑事法の専門家の一人ではなく、むしろその後に全く別のルートから偶然に知り合った精神医学者で、日本の宗教や文化に興味をもつ知日派の外国人に属しています。その彼が、2006年に自伝的な書物『私の人生と家族生活の歴史』を出版したといって、かつて京都に滞在した時の記録の部分を数枚の写真とともにカラーコピーして送ってくれたのです。
 それらの写真の中には、京都国際会館、京都御所、金閣寺、比叡山延暦寺、龍安寺などの著名な名所を自写したもののほかに、自分が滞在していた旅館の畳の部屋、そして、何と「別れの晩餐」と題する、私の家での食事風景の写真も含まれており、しかもその中に私の亡き妻の姿も写っていることを発見して驚きました。
 それは、私の当時のメモでは、1991年7月5日から13日までの間の出来事で、今から約15年前のことになります。ポーランド語の文章は、もうほとんど読めなくなっていますので、誰かに翻訳を頼んで、正確に復元したいと考えています。
 
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by nakayama_kenichi | 2007-01-01 21:37