最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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選挙犯罪との再会

 去る5月に、大分の弁護士さんから連絡があって、大分で共産党の市会議員が公職選挙法の「戸別訪問罪」「法定外文書頒布罪」「事前運動罪」で逮捕起訴され、第1審では罰金15万円、公民権停止3年の有罪判決を受け、福岡高裁に控訴中という事件について紹介があり、必要な援助をしてほしいと依頼されました。
 家内が死亡したこともあり、この件についてもそのままになっていたのですが、8月も終りに近づき、少しばかり涼しくなってきましたので、あらためて検討を開始しました。
 第1審判決(大分地判平成18年1月12日)は、公訴権濫用に当たるのではないか、憲法並びに市民的及び政治的権利に関する国際規約に違反するのではないか、構成要件に該当しないのではないか、とする弁護人の主張に沿って一応の検討を加えていますが、最初に結論ありきという形で、淡々と有罪判決を下しています。そこには、独自の考察をほどこした跡は全く見られず、これまでの最高裁判所の判例の枠内で形式的に処理し、国際規約による新しい問題提起にも前向きの対応は見られません。
 ところが、弁護人側の大部な控訴趣意書を読みますと、そこにはこの問題をめぐるきわめて詳細な分析が加えられており、公選法上の戸別訪問罪などに関する立法、判例、学説の歴史的な検討のほか、とくに国際人権規約にかかわる新しい問題提起が含まれていて、大変啓発されました。
 かくいう私も、かつて『選挙犯罪の諸問題』と題する書物(成分堂1985年)を刊行したことがあり、そこで戸別訪問・文書違反罪の検討を試みたことがあります。20年も前の自分の仕事を振り返って、あらためてこの問題の検討を継続する必要性を痛感しているところです。
 ここでひとつだけいうとしますと、戸別訪問などの選挙運動を罪悪視するのは日本だけで、西欧諸国にはこのような規制はないということです。ここでも日本法の「国際水準」があらためて問われているのです。なぜそうなのかを、歴史的にも検討する必要があります。戦前の国営選挙(翼賛選挙)の伝統がなお尾を引いているのではなでしょうか。
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by nakayama_kenichi | 2006-08-30 23:43

8月と合宿研究会

 毎年8月は、休暇中であり、大学教員としての本業は休みになるのですが、研究者としては、夏の休暇中こそがまとめて仕事のできる最大のチャンスであると受けとめて、これまで長年の間、夏休みの期間を研究のためにいかに有効に利用すべきかという点に関心を集中してきました。「熱海とのご縁」については昨年4月のブログにも触れましたが、私は夏休み期間中を熱海にこもって集中的に利用するというスタイルを長年にわたって定着させてきたのです。
 しかし、同時に、例年、8月は大切な共同研究のチャンスでもあり、ほぼ毎年、2つの合宿研究会に参加してきましたので、その点についても触れておきます。
 1つ目は、佐伯先生の創設にかかる「刑法読書会」の夏季合宿で、これはもう1955年ころ以来、ほとんど毎年夏の恒例の行事として、私自身の研究生活には欠かせないもっとも身近な経験交流の場となってきたものです。普段は日帰りの「月例研究会」ですが、8月は2泊程度の合宿形式をとることになっており、それが集中的な研究意欲を促進するだけでなく、会員相互の懇親の場としても結集力を高める働きを持続させることになったと思います。
 ただし、私としては、残念なことに、昨年も今年も家庭的な事情のため欠席が続いており、まずはこの空白を埋める努力の必要性を痛感しています。
 2つ目は、日弁連の刑事法制委員会の夏季合宿で、この方も、すでにかなり以前から定着している結集力の高い研究会です。私は最初は助言者として、最近は委員として、可能なかぎり参加するよう心がけています。ここでは、刑事法の実践的な問題が主題になりますので、それに見合うような研究者としての貢献が期待されているのです。
 昨年はこの方も休まざるを得ませんでしたが、今年は8月26日から2泊3日の予定で参加することになっています。今、開催地の湯河原に近い熱海にいて、このブログを書いているところです。
 以上からも、私の研究スタイルの特色のひとつが、夏季休暇期間を最大限に活用するという点とともに、できるだけ積極的かつ継続的に研究会に出席して、問題関心を広げることにあることをご理解いただけると思います。
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by nakayama_kenichi | 2006-08-24 10:19

古稀の会のビデオ

 これまで自分の過去の記録などを振り返ることはほとんどなかったのですが、今夏は仕事を中断していることもあって、1997年(平成9年)2月に開催された私自身の「古稀記念の会」のビデオ2巻をあらためて見る機会がありました。「十年一昔」といわれることもあって、かなり古いものですが、70歳という節目の年を画する記録として、貴重なものです。今これを見て、あらためて考えさせられたところがありますので、そのいくつかの点を書きとめておきたいと思います。
 まず、10年近くも前のことであっても、当時の印象は強くあざやかで、その全体像を直感的に想起することはできましたが、しかし実際には、個々の場面などでは、すでに記憶を失っているところも意外に多いことを再確認させられました。あっ、あの人も出ておられのかといった出席者に関する初歩的な誤認もいくつかあることを知って、率直に驚きました。関西の刑法読書会の仲間以外に、東京から松尾浩也さんが来ておられたほか、虎姫中学の同窓生の方々もお見えになっていたのです。
 次に、10年も前のことですので、私自身を含めて、出席者は当然今よりも10歳くらい若いはずで、その年輪の差を実感することができました。年は争えないというのが現実です。私自身は何とか現在まで生きながらえていますが、この10年間に、私よりも若い方々が何人かすでに亡くなっていることが判明しています。それに、私の妻も、当時は元気に出席して、あいさつもしていたのですが、今は亡くなり、姿を見ることができません。ビデオの姿は不思議な幻影です。
 それ以外にも、出席された方々の中から、私自身の研究業績の「多作」さの秘密は何かといった質問が多く寄せられていたことが印象に残っています。当日の私は、特別のことはありませんと答えるにとどまっていましたが、この点については、できれば別途これから少しづつ触れて行きたいと考えています。
 
 
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by nakayama_kenichi | 2006-08-23 16:38

異状気象

 京都は今年の夏も蒸し暑い日が続いて、いささか参っています。たしかに昨年の夏も暑かったことは事実ですが、今年は私自身が精神的になかなか前向きになれないせいもあって、余計に暑すぎると感じるのかもしれません。しかし、最低気温が27-8度、最高気温が35-6度という日が定着し連続することは、もはや異状気象というほかはないように思われます。
 私は、長い間京都に住んで、暑い夏にも慣れているつもりですが、かつての典型的な夏の気象は、日中は30度に達することはあっても、朝夕は比較的涼しく、とくに夕方は涼風が立って、打ち水をすれば、浴衣で団扇をもって散歩を楽しむことが十分にできました。ところが最近では、朝おきたときからすでに涼しさはなく、夕方になっても一向に温度が下がらず、夜の12時になってもまだクーラーを消すことができないくらい、高温どまりの現象が長く続いています。京都の夏の風物詩や行事は継承されいますが、現場まで外出する際には汗だくになることを覚悟しなければならず、むしろクーラー付きの室内でテレビで鑑賞するというのが一般的なスタイルになりつつあります。
 昨晩も、99歳になった家内の母のいる老人ホームの夏祭りに顔を出しましたが、クーラーのない中央広場で踊っている着物姿の女性の顔がびっしょり汗で濡jれているのが印象的でした。帰途に立ち寄った天神の森にも、涼風はなく、汗だくのまま帰宅しました。
 これが、地球環境の悪化のあらわれであることは、もはや疑う余地がないでしょう。目をそらすことなく、地球温暖化の原因と影響を探り、これに歯止めをかける方向に大転換することが求められています。もう手遅れかもしれませんが、放置することはより危険だと思います。気候が(も)おかくなっている、ますますおかしくなるおそれがあるという危惧の声をもっと広げる必要があります。
 
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by nakayama_kenichi | 2006-08-20 10:03

澤藤昭さんのこと

 最近送られてきた母校の「虎姫高校」の新聞(姉水)の中に、母校で44年もの長きにわたって数学の教鞭をとってこられた澤藤昭先生を偲ぶ2人の後輩教職員の方々の追悼文が掲載されているのに目を惹かれました。2005年6月29日逝去、享年79歳でした。
 彼と私は、戦前の旧制虎姫中学時代に同級生として5年間をともに過ごした間柄で、なつかしい思い出が多く残っていますが、上記の追悼文を読みますと、数学の先生としての彼の本領を改めて目の当たりにする思いがします。そのいくつかを紹介しましょう。
 「先生が黒板に描かれるフリーハンドの円は、半径の大小にかかわらず実に見事なものである。休み時間になると生徒たちは誰彼なしにコンパスや紐で検証して、その正確さに感動する光景はいつものことであった」。「先生のガリ版の字の美しさはほれぼれするものでしたし、ところどころの余白に、関係する旧制高校の寮歌や、こぼれ話などを入れて下さいました。・・・しかも先生の口癖に『道はひとつとは限らない』ということで、誰かが黒板のところで解いた後で、いくつもの解法のヒントをいただいたり教えていただいたりしました。中には、高校のレベルを超えたものもありましたが、高い数学の世界をかいま見る瞬間でありました」。
 澤藤昭さんは、旧姓を門池といい、当時のわれわれのクラスでは、数学は断然トップでした。田村録郎、山岡三郎先生の難しい授業の内容も彼がやさしく解説してくれたものです。三高から京大の数学を出て、すぐに母校に招聘された心やさしい秀才だったのです。
 ただし、彼は体力が今ひとつで、体育はまだしも、当時強制された軍事「教練」が大の苦手で、しばしば教官(特務曹長)に怒鳴りつけられるという場面がありました。しかし、それが、教員になってからも、必ずしも文部省の「指導要領」にはこだわらないという芯の強い姿勢につながったのかもしれません。
 また彼は、非常に几帳面な世話好きで、私ども虎中20回生のクラス会の幹事役として、長年世話を続けてくれていました。彼の役を引き継ぐ人がなく、このところクラス会は中断していますが、一番再開を期待しているのは彼ではないかと思います。
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by nakayama_kenichi | 2006-08-14 22:57

8月15日の原点

年々暑くなる一方の京都の夏に、また8月15日がやってきました。1945年から数えて61年間にわたって、わが国が戦争ではなく平和の時代を維持することができたのは、何といっても「平和憲法」のおかげであることを決して忘れてはならないと思います。
 しかし、一歩現実に足を踏む入れると、憲法9条のもとで自衛隊がまかり通り、アメリカ軍の軍事基地が要所に居座り、国家・国旗法が教育現場を威圧し、米軍に協力して自衛隊がイラクに派遣されるなど、平和憲法は空洞化の危機から、改正の危機にまでさらされています。
 今、靖国神社の問題が政治問題化していますが、小泉首相の言動がほかの問題にように簡単に受け入れられないのは、それが個人の心の問題であるとか、公約の実行であるとかいう理屈だけではすまない、もっと深刻な問題であることを一般市民が直感しているからではないかと思われます。
 この靖国の論議をめぐっても、すでに多くの混乱が出ていますが、問題の焦点は、大東亜戦争とその敗戦を基本的にどのように評価し、その責任をいかに明らかにしていくべきかという点にあり、この肝心の点が戦後もずっとあいまいにされてきたことこそが問題であります。
 今はっきりしていることは、靖国神社当局が遺族の意思を無視して祭祀者の名簿を作成し、A級戦犯も合祀してはばからなかった点にあり、遊就館は殉国の英霊を顕彰するとしながら戦争への反省と平和には黙しています。少なくとも、A級戦犯合祀論には、遺族だけでなく一般世論にも疑問があり、それが昭和天皇の「強い不快感」にも心情的につながったものと思います。
 しかし、今の政府も靖国神社も、反省の色すら見せず、「政教分離」という名目を巧みに利用して、現状の維持延命を図り、ここでは「改革」路線に背を向けています。
 昭和天皇のA級戦犯合祀に対する不快感と以後の靖国神社参拝拒否という行動は、ひとつの見識として評価できるものですが、今では天皇のそのような行動の影響すら限られたものになって無視されてしまいそうな状況にあります。天皇の威光を利用してきた権力者も、まずいと思えば無視してはばかりません。しかし、国民への影響はまた別で、少なくともA級戦犯合祀の点は疑問であるとする世論が自然に形成され、それがさらに大東亜戦争の戦争責任論へと発展する道筋を期待したいものです。
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by nakayama_kenichi | 2006-08-14 13:36

ブログのコメントに感謝

 このブログも昨年2月末から始まって、もう一年以上を経過しており、家内を失った直後は一時中断しましたが、その後もまあ何とかほそぼそと続けています。
 80歳近くまで年をとれば体力も気力も衰えるのが自然現象ですから、もうそろそろ終結するのが常識というものかもしれませんが、私にはもう少しこのブログにこだわる理由があります。。
 第1は、私自身のこれまでの若い頃から自然に身についた習性として、ある仕事に着手したらなるべく長く継続し、ある程度の実績と評価がでるまでは、できるだけ途中で止めるようなことはしないというひそかな願望がなお残っているからです。
 第2は、私もさすがに最近は長い論文を書いたり著書を出版するという本格的な研究体制をとることができない状態にありますので、せめてその時々の話題のなかから興味のあるものを選んで随想風にまとめた短い原稿を書いておくことにも意味があるのではないかと考えるようになってきているからです。いつも何か書いていることが、いつも何か考えているという気分の支えになっているのでしょうか。
 第3は、別に特別に期待しているわけではありませんが、本文に対しては、ときどき「コメント」の形でブログの読者からの反応があり、これらの貴重なご意見が梃子になって、また次の原稿を考えようかという気力が湧いてくるものです。
 この機会に、私のブログを覗いてくださる方にこの場をかりて感謝するとともに、批判的な意見を含めて、感想や注文や要望などを、寸評で結構ですので、遠慮なくお寄せ下さるよう改めてお願いします。
 なお、私個人宛の通信文は、電子メールでも可能です。忙しいこともありますが、できるだけ返信を差し上げるつもりです(メール番号は、私の「口述刑法総論・各論」のはしがきの最後のところに公表しています)。私は、パソコンには弱いのですが、メールの送受信くらいは可能です。 
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by nakayama_kenichi | 2006-08-11 11:17

昭和30年当時の仙崖荘

 若狭の仙崖荘ばかりにこだわっていますが、3日に訪問した際に、門人一家の北原さんから、昭和30年当時の仙崖荘について書かれた新聞記事を見せて頂きましたので、その内容を記録として要約・紹介しておきたいと思います。
 これは、昭和30年(1955年)4月6日付の中部日本新聞(福井版)の記事ですが、その中には以下のような記載が見られます。
 乾長昭氏は「若狭聖人」といわれた賢人だった。同家の系図によると、清和天皇の孫経基王の末孫で源満仲公の34代目にあたるという。昭和2年60歳のとき遠敷群上中町下タ中区の小丘にいほりを建て仙崖荘と名づけて老後の余生を送った。ここで当時の区民らに「人生いかに生くべきか」の哲理を教えたのが実を結び、同氏の死後も毎月1回、命日にあたる19日に60余名の農家の人達がいまもなお野良着姿のまま集って修養の道を励んでいる。
 慶応3年9月10日出生の乾氏は、伝記によると6歳で実父満昭氏から漢学を学び16歳で独立、和漢の古典百巻を読破、東都に遊学して法政大学法科卒業後は仏教哲学を研究して真理をきわめたとある。下タ中区酒類販売業北原文左衛門氏らのすすめで昭和2年ころから他界した昭和13年1月19日までの10余年間、八幡山を背に美しい樹木に囲まれた仙崖荘で希望者を集めて哲学講座を開き、モンペ姿の純朴な農夫がつめかけて百ブツ(勿)訓、如是観、正信ゲ(偈)阿弥陀教など、宗派に関係なく難解な仏典をかみ砕いてわかりやすく聞かせた。むつかしいもの、わからないものをありがたがる盲従的な観念は強く排撃した。・・・・三方郡十村地方からも熱心な青年男女が集り、多いときには受講生は百余名に達し,6畳2間の仙崖荘は人ガキで埋まったほどだったという。
 以上が当時の記事の内容です。おそらく最大の疑問は、小学校卒業程度の教育しかない農民にどうして仏教や哲学の難しい経典の内容が理解できたのか、そんなものになぜ興味を抱いて自発的かつ継続的に勉強するようになったのかという点にあるでしょう。今回、門人の子孫の方にその点を質問してみたら、話の内容よりもむしろ師の人柄を慕って集り、その教えを一生懸命に勉強したのだろうということでした。そこには、今日の教育にとっても考えさせられるものが含まれているように思われます。
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by nakayama_kenichi | 2006-08-08 14:45

仙崖荘の涼風

 過日、福井新聞小浜支局の記者から電話があり、私のブログのなかの「若狭の賢者」の紹介文を見て、現地にある「仙崖荘」を見学し当時の弟子の子孫の方々とも会ってみたいと思うので、できれば同道してほしいという依頼がありました。そこで、8月の墓参をかねて、急遽若狭まで出かけることになりました。
 8月3日の早朝に家を出て、近江今津まで湖西線に乗り、そこまで迎えにきてくれた記者の車で、夏山の谷間に沿って若狭まで通り抜けました。午前10時半ころに到着した頃は、もう北原さんなど現地の親しい門人関係の数人の方々が仙崖荘の戸や窓を開けて、中で待機しておられました。
 私自身も仙崖荘の中に入るのは久しぶりでしたが、築後すでに80年の古い家のなかにはほとんど家財道具もないのに、床の間に掲げられた乾長昭氏のかなり大きな写真がなお訪問者の目をひきつける魅力と緊張した臨場感を与えるのが不思議です。集った皆さんで資料を持ち寄って、建物と記録の保存方法を相談したのですが、話はいつしか昔に及び、親や兄弟などから伝え聞いた昔々の思い出話をあたかも自分自身の体験談のように、目を輝かして語られる姿には、改めて驚きのほかありませんでした。記者も強い印象を受けた様子でした。
 とくに仙崖荘に近隣の人たちが集ったのは、昭和2(1927)年から昭和13(1938)年までの約10年間という古い古い時代のことでであり、昭和30年頃に平泉澄氏が訪問して「若狭の賢者」のことを紹介されてから数えても、現在まですでに50年を経過しているという時代の長さに注目しなければなりません。平成18(2006)年の現在でもなお、門人の子孫たちが仙崖荘に集って、賢者の墓所とともに維持管理を続けているというのは、尋常のことではないのです。
 戸外は真夏の暑さでしたが、仙崖荘の中を通る風は涼しくさわやかでした。
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by nakayama_kenichi | 2006-08-08 13:56
 8月1日の夕方、立命館大学のロースクールのある西園寺記念館を訪ねました。立命館の衣笠校舎にはたびたび行ったことがありますが、西園寺記念館は初めでで、興味をひかれました。西園寺公望候の肖像と揮毫が目をひき、金閣寺周辺の緑に囲まれた周囲の環境が抜群であることを改めて感じましたが、アカデミックな建物の中の合理的な学習環境の工夫にも感心しました。
 ただし、ロースクールが9月からは二条城の新しいキャンパスに移転の予定であると聞いて、便利になるのは嬉しいとしても、この地を去るのが惜しいというジレンマがあることもを感じとることができました。帰りは西園寺記念館から衣笠校舎まで歩きましたが、10分あまりもかかり、やはり不便さは免れないようです。
 当日は、学期末試験の最終日に当たるということもあってか、多くの院生に緊張の解けた明るい雰囲気が見られましたが、若い女子学生の数が多い中にあって、やや年配の男性陣も混じっているという印象を受けました。
 私は、「刑法の学び方ー私の経験から」と題して、約1時間の講演をしました。自己紹介では戦前戦後の歴史的な体験を話題にし、立命館大学との関係では長い非常勤講師の経験と最終講義の思い出などから立命館大学の学生へのシンパシーを語りました。私の刑法との出会いが瀧川先生の講義と佐伯先生の著書に触れたことにあり、それが外国文献の購読を基礎とした継続的な研究・著作活動と大学での講義への熱意につながったことを説明しました。
 そして、学生諸君へのアドバイスとして、ロースクールに相応しい状況のもとで、講義の聴き方や本の読み方を自覚的に反省し、忍耐と継続によって、自分のレベルの確認とそのレベルアップの方法を真剣に探る必要があることを訴えました。
 若干の質問が出た後、花束をもらいましたが、講演が終わってからしばらくの間、サインを求める学生の列ができたことは嬉しいことで、多くの学生と握手をして別れを惜しみました。彼らの初志の貫徹を心から期待したいものです。
 
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by nakayama_kenichi | 2006-08-02 21:44