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最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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<   2006年 06月 ( 10 )   > この月の画像一覧

 私は、昭和19年3月に旧制中学を卒業後、同年4月8日に清水高等商船学校に入学し、海軍の予備役に編入されました。昭和20年8月15日の敗戦まで在学し、戦後の同年11月にいったん復学しましたが、結局、昭和21年3月31日に中途退学しています。
 手元に残っている「航海科生徒経歴表」によりますと、学業成績は以下のようになっています。

         学科目      期末試験(昭19・10)  学年末試験(昭20・2)
       -----------------------------------------------------------
        文化概論                       75(道義) 
                                    90(用語)
        地文航法         77            82
        航海計器         84            87
        運用技術         95            89                 
         航海法規         96            93
         気象学                        93
         海法学                        80
        機関学          91            92
        電気工学                       98
        数学第1類        90            95
        数学第3類        85            95
        物 理           95            95
         化 学          100            94
        英 語           95            91
        兵 学          100           100
        兵学(砲術)        98
        乗船実習                       91
     --------------------------------------------------------------
なお、当時の私ども第2期生の定員は航海科が900人、機関科が900人であり、2年次に進級した際に、私は筆頭の11分隊伍長に指名されたため、航海科のトップであることが判明しました。制服の襟章である碇(いかり)マークの横につける金色のチェリーマークをもらいましたが、元来が臆病な私は、指揮棒(サーベル)の操作や号令の発声などで思わぬ苦労をしました。
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by nakayama_kenichi | 2006-06-29 13:09

私の学業成績(中学校)

 戦前は、田舎の小学校では6学年卒業後、多くは2年間の高等科にそのまま進み、少数の者が5年制の中学校(男子)または女学校(女子)の入学試験に挑戦しました。私は、旧制の滋賀県立虎姫中学校に進学し、昭和19年3月1日に第5学年を卒業しました。敗戦の前年に当たります。当時の「成績通告表」の原本が何通か残っています。
       教科目       1年    2年    3年    4年    5年
    ----------------------------------------------------------
       修 身                                 優
       公民科                          96     優
       国語及作文 ----------------------------------------    
        購 読       94    95    90     90     優
        習・文・作・副   88    93    94     86     優
        漢 文             93    96     94     優
        --------------------------------------------
       歴 史        95    94    95     94     優
       地 理        95    96    96     85     優
       英 語 ------------------------------------------------
        一般英語     97
        読 解             98    96     96     優
        作・文・習           98    96     98     優
       理 数 -----------------------------------------------
        一般数学     88  
        代数・三角          97    94     94     優
        幾 何             97    98     93     優
        一般理科     90
        博 物             94    91     88     優
        物 理             96    93     96     優
        化 学                   97     88     優
              -----------------------------------------------
       図 画        94    95    92     82     優
       音 楽        91    90
       作業科        85    87    88     78      
       体 操 -----------------------------------------------
        教 練       82    95    93     83     優
        普 体       75    88    85     73     優
        武 道       74    75    72     70     良
            ----------------------------------------------
       修 練                                  優
       全級人員      108    109   103    102    99
       席 次          1     1     1      1     特
       及 落          及    及     及     及     卒
     -----------------------------------------------------------------------
  武道は、剣道でなく、柔道を選びましたが、長い冬期には畳に素足が冷たくて、どうしてもなじめず、ただひとつの「良」を記録しています。なお、部活は「野球部」に属していましたが、4年生のとき、敵性競技として廃止されました。
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by nakayama_kenichi | 2006-06-27 22:09

私の学業成績(小学校)

 私の研究業績については、そのつど公表されていますが、学業成績についても、この機会に、歴史的な記録として書きとめて、参考に供したいと思います。
 第1は、小学校の学業成績ですが、1学年に在籍した大阪市北区上福島尋常高等小学校の校舎は戦災のために焼失しましたので、成績簿も見当たらず復元できません。2学年から6学年までの学業成績は、滋賀県伊香郡余呉尋常高等小学校に在学したときの記録です。入学は、昭和9年(1934年)12月4日、卒業は昭和14年(1939年)3月25日となっています。
      課目   1学年  2学年  3学年  4学年  5学年  6学年
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
      修身          甲    甲     九    九     九     
      国語          甲    甲     九    九     九
      算術          甲    甲     十    九     九
      国史                           九     九
      地理                           九     九
      理科                      九    九     九
      図画          甲    甲     九    九     九
      唱歌          乙    甲     九    九     九
      体操          乙    甲     九    九     九
      手工          甲    甲     九    九     九
      評定          甲    甲     甲    甲     /
      操行          甲    甲     甲    甲     優 
  ------------------------------
  なお、在学中の欠席日数は病気・事故とも1日もなく、皆出席となっており、身体検査にも異常は記録されていませんでした。 
 戦前ですから、すでに小学校の段階から「修身」とか「操行」いう課目があったことが注目されます。当時は、「操行善良学芸優等」が模範とされていたのです。 
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by nakayama_kenichi | 2006-06-26 10:22

熱海の来宮神社

 6月19日から、気分転換のため、思い切って家を出て、熱海に来ています。いつもならば、仕事をいっぱい持ってきて、時間を惜しんで研究に集中し、暇を見つけてリラックスのため海岸べりなどを散策するといった行動スタイルなのですが、今回ばかりは特別の目標や予定がなく、休養が主たる目的ということにしました。
 しかしそれでも時間を持て余したため、違法性の意識に関する最近の論文を読んだり、公職選挙法上の戸別訪問罪に関する資料に目を通すくらいの仕事はしました。これらは、いずれ何かに原稿を書くための準備作業でもありますので、いったん中断していた研究活動が少しづつ復活してくる兆しになるのかもしれません。
 ところで、今回は、表通りの下り坂方向に当たる海岸べりの散歩のほかに、裏の山手の上り坂の方向にも足を伸ばして、「来宮神社」まで歩いて行ってきました。距離はそれほど遠くありませんが、急勾配の道で、けっこう体力と気力を要します。だいぶ前に行ったきりなので、道が分からなくなり、通行する人に尋ねて、ようやく目的地にたどりつきました。この神社は、樹齢2000年の大きな楠(くすのき)が有名で、国の重要文化財に指定されています。長寿の福があり、周り23メートル、高さ26メートルの大樹のまわりを一周すると1年寿命が延びるといわれています。私も一周してきました。稀にみる古い年輪の大木ですが、今でも葉の緑が実にあざやかで、生気に満ちた奥深い生命力を実感しました。
 しかし、その反面、神社の境内のすぐ外は鉄道の高架やアスファルトの道に囲まれており、ゆったりと参道を散策するという雰囲気を楽しめないのが残念です。景観の保存がいかに難しいかを実感しながら、うっそうたる緑の境内を出て、日ざしのまぶしいアスファルトの道を黙々と下りました。
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by nakayama_kenichi | 2006-06-21 15:52

ママの育児日記

 今日は6月16日。家内が亡くなってから2か月目の命日に当たる。まだ足が地につかないで浮遊している感じの毎日が続いている。気を紛らわすために片付けものをしていたら、家内の古い「育児日記」を発見した。それは、昭和35年(1960年)5月1日から翌36年(1961年)8月27日までの約1年半ほどの期間に及んでおり、2人の子育ての細かい記録である。
 ここでは、「若狭の賢者」との関係で、長男を連れて若狭の仙崖荘に滞在した期間(35年8月14日から9月10日まで)の日記のなかから、本人の推定的同意の範囲内で、いくつかのメモ書きを抜粋し、当時の思い出を再現しておきたい。
 「8月17日 水曜日 晴 今日もまた、樋口さんに午前中だけ、坊やをあずける。夕方、涼しくなってから、大お祖父様のお墓参りに出かける。大祖父様、何卒、坊やが元気で、おりこうに大きくなりますように・・・・・・と。帰りに北原さんへお土産をもって寄ると、北原さんの小母さんも「何したいい坊ちゃん」と云ふ。この辺りでは、まだ男児を重んじて喜ぶ風が見えて、男児大いに鼻の高いろころだ。」
 「8月19日 金曜日 晴 今日は、大祖父様のご命日で、夜、門人の人達が沢山集まるといふので、ママは、お供えをかねて、にぎりずしを100個ほども作る。そして、樋口さん、田辺さん、小畑さんへも配る。夜、皆やってきた。坊やは神妙に落ち着いている。「徳があってョナー」と皆は感心する。いくら親バカチャンリンのママでもこれだけはネコカブリと判っていて苦笑する。パパが安保条約改定の話をなさる。おばあちゃん達には無理らしい。コックリ、コックリ・・・。」
 「9月5日 月曜日 雨後曇 今晩は多門会。17人ばかり集った。パパが「幸福への技術」という本の紹介をされる。坊やは神妙に、お利口そうにパパのひざの上で、皆のあいさつを受けて、ほめられている。パパのお話の最中、ママのところでお菓子をパクパクやったので、お腹が少しおかしくなちゃった。皆、夜8時ころ解散。後に、北原、津田、岡本さんに、小畑が残って、おじいさまの書物のことなどを話して、1時になる。」
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by nakayama_kenichi | 2006-06-16 11:21

若狭の賢者(3)

 平泉澄氏が若狭の僻地に「仙崖荘」を訪問し、上述のような手記を書かれたのは、昭和30年(1955年)のことですが、これを読んで驚嘆した地元の一青年が、昭和57年(1982年)に仙崖荘を訪れたときの手記も記録されています(永江寿夫「天地宇宙 汝にありー若狭の小さな村にてー乾長昭先生のご事蹟」一滴の会・一滴第71号、1994年)。
 その中には、仙崖荘はどこかと訪ねたおばあさん(津田静子さん)が、先生の書かれた詩文を立派に表装された御軸や、先生自作の「如是観」などを自宅に秘蔵されていたのを見せてもらって、身震いするほどの感激を覚えたこと、そしてそのことを平泉先生に報告したら、その経験を大切にしなさいという返事を頂いたことなどが生き生きとした体験談として書かれており、中島義明氏が長く大切に秘蔵されていたと言われる何枚かの書や額などの写真も掲載されています。
 ところで、私自身も、家内や子供とともに、何回か若狭の「仙崖荘」を訪れたことがあり、何日か宿泊した経験があります。その後長く中断したままになっていましたが、最近、家内が亡くなった後、改めて訪問する機会がありました。仙崖荘は、もう使用できない状態ですが、大切に保存されていました。当日、集まって下さった数人の方々は、いずれもかつて自ら講義を受けたお弟子さん達の子供の世代に当たり、どなたももうかなりの年配の方々でした。直接のお弟子さん達はすでに亡くなられていますが、当日見えた数人の中で一番年配の井上松雄さんは、お母さんのお腹の中にいるときに講義を聞いたといわれ、先生の遺訓をとうとうと語られたのには、心底驚きました。
 さきほどの体験談の筆者である永江寿夫さんも、今は若狭町の教育委員会の事務局におられますので、直接にお目にかかって、仙崖荘の保存を含む「若狭の賢者」の業績の蒐集に協力して頂くよう、皆さんと一緒にお願いしました。これからも、ときどき若狭を訪問して、資料の蒐集と保存に努めたいと念願しています。
 
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by nakayama_kenichi | 2006-06-14 23:37

若狭の賢者(2)

 平泉澄著『山河あり(全)』の続きは、次のように記しています。
 「先日迎えてくられた人の中に、田辺さんという婦人がありました。この人も無論小学校だけしか出ていないのですが、14歳の時から仙崖荘の講筵に列し、先生の教へられた如是観などは、全文を暗誦していると伝聞していましたので、特にたのんで読んで貰いましたが、いかにもあざやかに理解し、記憶し、一字も誤らずに朗誦せられました。如是観その他、先生の作られた詩文を、大抵のお弟子たちは、先生に書いていただいて、立派に表装し、美しい箱に収めて秘蔵していまして、私の参りました機会に持参してみせてくれられましたが、その扱ひの鄭重なる事、昔の藤樹先生の筆蹟に対して示した人々の態度と同一でありました。
 念の為に、少しく如是観の文を掲げませう。
 『望浮雲之富貴、冀槿花之栄華、厮競厮争無寧日、老而終不得安処、死而空為青山之土了、是為群生之常態也、白眼観世間来畢竟太俗生、覚者則理智明灼越生死、而心無擬無苦悩、崇高之偉蹟長不滅、荘厳之霊光燦照千古矣、於乎覚者群生天性固是同一、而一煩悶一悠悠、相隔遠哉、』(下略)
 14歳の少女が、之を読み、之を解し、之を楽しむに至るといふは、非常の事であります。今の教育学、児童心理学の夢にも知らざる世界であります。かしくて昨日までは、低俗浮薄の俗謡の歌はれたところに、これよりは論語の暗誦が始まり、下中を中心とする附近の村々は、礼儀礼節の郷と化したのでありました」。
 「先生の亡くなられたのは、前にも述べましたように、昭和13年1月19日の事でありますから、今から17,8年も前に当ります。しかるにお弟子たちは、毎月19日、先生の命日を迎へるたびに、ここに集まって、先生の遺影を拝し、遺訓を拝読し、戦争の激しかった時にもこれを欠かさず、戦後混乱の日にも之を廃せず、以って今日に至っているのであります。そして今も先生の遺影の前に出て、もしくは談ひとたび先生の事に及べば、必ず膝を正し、正座せずには居ませぬ。「先生は安座せよと言はれたが、お許しが出ても、とてもとても膝が崩せるやうなものではありませぬでした。それで夜ふけて帰る時、座敷をすべり出て、縁側をあるく時には、誰も彼も足が言ふ事をきかず、足の甲であるいていたものです」と、楽しげに語るもでした」。
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by nakayama_kenichi | 2006-06-12 21:25

若狭の賢者(1)

 最近亡くなった妻の祖父にあたる「乾長昭(いぬい・おさあき)」について、平泉澄著『山河あり(全)』(平17、錦正社)の中に、「若狭の賢者」として紹介した一文があるのを発見しましたので(214頁以下)、その内容を何回かに分けて紹介したいと思います。
 「賢者の遺宅である仙崖荘・・・の奥の6畳の間、床に写真をかかげて祭ってありますのは、今は亡き此の家の主人、里人の恩師と仰いで、敬慕してやまない乾長昭先生であります。先生は佐土原藩士乾満昭の子、慶応3年9月10日、鹿児島で生まれられましたが、父が国幣中社若狭彦神社の宮司を拝命せられましたので、従って若狭へ来、ここで成長せられ、遠敷郡遠敷小学校を卒業し、進んで京都第一中学校に学ばれましたが、その後北海道に渡って開墾に従事しつつ苦学し、東京法政大学を出て長野県に奉職し、更科・佐久・北佐久の諸郡に郡長として歴任した後、大正10年退職、やがて少年時代の想出なつかしい小浜へ帰り、恩給で暮らしている身が、遊んでいては申訳がない。君恩に報じ奉る一端にもと、縁ある人々に学を講じ、徳を勧められたのがもとで、遂に下中の里人に迎えられて、此の仙崖荘を建てて此処へ移り、しづかに道を講ずること約10年、昭和13年1月19日、72歳にして永眠せられたといひます。
 講筵の開かれたのは、一週に4回、すべて夜分でありました。昼は終日、鍬をとって田畑を耕し、夜になると講義を聞いたといひますが、講義には四書、特に論語が多く用いられたとの事です。何分にも僻地の農村で、村の人々は小学校の教育だけしか受けていないのでありますから、それには四書は随分むつかしく、難読難解であれば自然砂を噛むような気がしなかったかと、普通ならば想像せられ心配せられるところでありますが、実際はさにあらず、人々は先生の指導によってよく古典を理解し、その醍醐味を味って、日暮れては鍬を棄てて仙崖荘に集まる事を楽しみとし、一週に4回といへば多すぎるかと思われるのに、寧ろそれを少なすぎるように感じ、よろこんで来り集まったのでした。中には峠を越して隣郡の倉見村から通った人もあるといひます・・・」。
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by nakayama_kenichi | 2006-06-11 20:59

6月7日

 6月2日にブログを再開したのですが、まだ前向きにものを考えて何か書くという気分になれないままに、6月7日を迎えました。今日は、亡妻の直子との結婚記念日なのです。
 私どもは、昭和33年(1958年)の6月7日に結婚し、京大の楽友会館で披露宴を催しました。当時はまだビデオ録画の技術は未開発でしたが、友人に8ミリカメラをもっている人がいて、撮影したものを編集してもらったものが残っており、当時の模様を偲ぶことができます(ただし、白黒で無声)。当時の出席者のうち、平場安治先生、宮内裕先生をはじめ、すでにかなり多くの方々が亡くなっておられます。
 すでに、50年ほども前のことですが、当日の披露宴に出席してくださった方々の「寄書き集」の中に、いまもなおご健在の佐伯千仭先生(98歳)が当時書いて下さっていた以下のような文章があることを思い出しましたので、この機会に書きとめておきます。

          初め 蜜のごとく
 
          中頃 飯のごとく
    
          終り 空気のごとし
 
 すでに早く奥様を亡くされた佐伯千仭先生のご健勝にあやかり、空気のごとく生きていきたいと念願しています。

 
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by nakayama_kenichi | 2006-06-07 13:47

6月2日

 しばらく休んでいたブログを今日から再開することにしました。
 まだ私事を引きずっていますが、今日6月2日は、亡妻の誕生日です。大阪に出た帰りに、阪急百貨店で誕生祝いのケーキを買ってきましたが、肝心の本人がいませんので、近所の親しい奥様に来てもらって、ささやかな誕生会をしました。これからは、毎年、死亡した4月16日とともに誕生した6月2日も忘れずに記念したいものだと考えています。
 1人暮らしにも、たいぶ慣れましたが、まだ気分が落ち着かず、なかなか前向きのリズムに乗れないでいます。外出してもすぐに家に帰りたくなるというのも、おかしな心理現象です。
 研究生活は中断したままで、気を紛らわすために、家の内外の片付けものをしていますが、その中から過去の思い出の品などを発見することがあります。
 5月27日と28日には、刑法学会が立命館大学で開かれましたので、思い切って顔を出しましたが、多くの友人と会うことによって、だいぶ元気を取り戻しました。しかし、研究報告を聞いている間に居眠りをしたりして、まだ体調も本調子でないことを自覚しました。
 今日はまず、お悔やみ頂いた「千の風になって」という詩(歌)の一節をかかげておきます。

   私の墓の前で 泣かないでください
   そこには私はいません 眠ってなんかいません
   千の風に 千の風になって
   あの大きな空を 吹きわたっています

   秋には光になって 畑にふりそそぐ
   冬はダイヤのように きらめく雪になる
   朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
   夜は星になって あなたを見守る
 
   私のお墓の前で 泣かないでください
   そこには私はいません 死んでなんかいません
   千の風に 千の風になって
   あの大きな空を 吹きわたっています

   千の風に 千の風になって
   あの 大きな空を 吹きわたっています
   
   あの 大きな空を 吹きわたっています
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by nakayama_kenichi | 2006-06-02 18:25