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最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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2月28日ブログ1周年

 今日は2月28日、2月も末日で、明日から3月になります。
 このブログを開設したのが、2005年2月28日でしたので、今日で丸1年ということになります。長いようで短い1年間でしたが、ブランクを作ることなく、何とか今日まで維持することができたのは幸いでした。物忘れが多いこの頃ですので、記録しておくことは自分自身の備忘録にもなります。
 この1年間は、年の割りには元気で、夏にちょっと狭心症の疑いで検査を受けた以外には特別の異常はなく、何とか健康状態を維持することができました。別に運動はしていませんが、駅までの往復は歩いています。ただ、最近、腱鞘炎にかかり、鍼灸院に通っています。
 月に1回は上京し、週に1回は大阪の事務所に出かけるほか、月に3回の研究会にはほとんど休まず出席するという生活スタイルも、自然に定着しているようです。
 2月の仕事としては、精神科の出版社から依頼のあった原稿を締め切り前に書き上げたほか、「堀越事件」の意見書(その2)を論文風にまとめたものが、法律雑誌に掲載されることになっています。徐々に仕事のペースは落ちていますが、もうしばらくの間、研究者としてとどまりたいと願っています。
 私は、大學を離れてもう10年近くになりますが、私の友人である現役の先生方が、今でも私の著書を大學のテキストや参考書として使って頂いているらしく、私のところにも読者から質問のメールがきます。メールの送受信によって、学生諸君を含む、より若い世代の方々との交流にも常に前向きでありたいと考えています。
 明日からまた、2年目への再出発です。
 
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by nakayama_kenichi | 2006-02-28 16:57
 では、マッカーサーはなぜ天皇の戦争責任を追及しようとしなかったのだろうかか。ダワー『敗北を抱きしめて』の下巻には、その理由と経緯が詳細に展開されている。それは、マッカーサー総司令部の「くさびを打ち込む」という対日占領政策に由来するものだったというのである。
 「すでに戦争の後半には、マッカーサー司令部も、天皇が日本の降伏だけでなく戦後の変革の鍵を握っていると考えられていた。部下たちの表現によれば「軍国主義者のギャングたち」は日本をだましただけでなく、聖なる君主も裏切ったのだと日本人を説得し、それによって軍部と天皇(およびその臣民)との間に「くさびを打ち込む」ことが重要なのであった」(下巻8-9頁)。
 「天皇の敗戦の放送は、事実上、宮廷と政府が派手に振り付けした「国体護持」戦略の始動を告げる合図であった。放送から7時間後、鈴木貫太郎首相はラジオ演説で、「陛下は万民を救いかつ世界人類の幸福と平和に貢献すべき旨のご聖断をし給うたのであります・・・・」と国民に告げた。この老いた退役海軍大将は続けて、勝利を得られなかったことについて国民はことごとく陛下に「心よりお詫び申し上げる」といい、「臣下の本分は、生きるにつけ死ぬにつけ、如何なる場合にも天壌無窮の皇運を扶翼し奉ることであります」と宣言した」(下巻16頁)。
 「天皇を救い、利用することに対する総司令部の関与は、確固としたものであった。その焦眉の急は、もっとも利用価値の高い天皇を作り出すことであった。・・・・・・その後の数カ月間、日本の皇室擁護派とアメリカ人の同調者たちは、天皇を守り、利用するにはどうすのが一番よいかをめぐって、ぎこちないダンスを一緒に踊った。・・・・・天皇に新しい衣装を着せ、裕仁個人の身の安全を確保し、新設された民主主義国家の中央装飾として玉座を置くのに、大いに貢献したのである」(下巻32-36頁)。
 そのほか、まだまだ多くの記述があるが、マッカーサーの政策的意図はそれなりに了解できるとしても、天皇裕仁の対応には本質的な問題があり、そこには最高の特権者によるしたたかな自己保身の究極の姿を見る思いがするのである。
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by nakayama_kenichi | 2006-02-28 10:55
 私は、長い間、天皇の戦争責任が結局は問われないままになったのはなぜかという疑問を持ち続けていた。本人が自ら戦争責任を認めるのが当然であるにもかかわらず、それが一切なされてこなかったことははっきりしている。しかし、敗戦当時、連合国からは天皇の戦争責任を問う声が上がっていたことは事実である。にもかかわらず結局不問に付されたのはなぜであろうか。ダワーの「敗北を抱きしめて」は、この点を以下のように明瞭に分析している。
 「基本的にいえば、最高司令官はワシントンの上司に許可をもらえば、既存の政治機構を変更し、天皇裕仁を退位させ、天皇制を廃止することさえできる権限を持っていた。しかし現実には、こうした選択肢は一度たりとも真剣に考慮されることはなかった。日本の軍事組織は消滅し、抑圧的であった内務省も解体されたが、官僚制は本質的に手づかずのままであり、天皇も退位しなかった」(上巻、262頁)。
 「マッカーサーとその側近たちは、天皇の戦争責任ばかりでなく、天皇の名において残虐な戦争が許されたことに対する道徳的な責任さえも、すべて免除しようと決断していた。・・・・・にもかかわらず、日本の侵略行為に対する天皇の積極的な関与の事実は、当時からすでに無視できなくなっていた。すくなくとも天皇の道徳的責任は明白であった。ところが、この天皇の責任について、アメリカ人が見て見ぬふりをしただけでなく、否定さえしたために、「戦争責任」という問題の全体が、ほとんど冗談になってしまった。その人の名において、20年にわたり帝国日本の外交・軍事政策が行われてきた、まさにその人物が、あの戦争の開始や遂行に責任を問われないとしたら、普通の人々について戦争責任をうんぬんしたり、普通の人間が自分自身の戦争責任を真剣に考えるべきだなどど、誰が思うであろうか」(上巻11-12頁)。
 マッカーサーは、占領目的のために天皇を利用し、天皇もそのことを知りつつ、マッカーサーに協力することによって、戦争責任を見事に免れたのである。この関係を、ダワーの本は、目を見張るほど的確に指摘している。この点については、さらに次回に触れることにする。
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by nakayama_kenichi | 2006-02-27 21:21
 この本は、John W. Dower, Embracing Defeat, Japan in the Wake of World of War II, 1999. の翻訳書で、2001年に初版が、2004年に増補版が出ている(岩波書店)。私は、今回初めて、増補版に出会ったが、たちまち魅了されてしまった。
 上下2巻の大作であり、まだ全部を読了していないが、ある所でまとめようとすると、また次の新しい問題が提起されてきて、休むいとまがない。忘れまいとして、赤と黒のボールペンで線を引き、あとでフォローできるように、付箋をつけたら、それが一杯にあふれることになった。
 そこには、歴史家としての誠実な学問的対応とともに、何よりもヒューマンでリベラルな思想が一貫しており、権威や公式見解なるものに疑いの目を向けるという批判的精神と民衆に対する暖かい思いやりが横溢していることを実感することができる。
 著者によれば、「敗北を抱きしめて」とは、日本は世界に数ある敗北の中でも最も苦しい敗北を経験したけれども、それは同時にまたとない自己変革のチャンスに恵まれたということでもあり、多くの日本人は敗北を抱きしめて、より抑圧の少ない、より戦争の重圧から自由な環境で再出発するための、本来の可能性をもたらしてくれたからであるというのである。
 21世紀に、自分たちは何を目標とし、何を理想として抱きしめルべきかと、日本人が自問するとすれば、それはあの恐ろしい戦争のあとの、あの滅多にないほど流動的で、理想に燃えた平和の瞬間であり、それこそ最も重みのある歴史の瞬間として振り返るべきでないかと、著者はわれわれに呼びかけている。
 私自身も、敗戦の歴史的瞬間を経験した者として、本書の中から、多くのことを学び取りたいという躍動感を抑えきれないでいる。まだ本書をご存知のない方に、自ら読まれることを心から勧めるとともに、このブログの中でも、その内容を紹介していきたい。
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by nakayama_kenichi | 2006-02-26 16:21

敗戦直後のこと

 1945年8月15日の敗戦時には、私は清水高等商船学校の2年生として、三保の松原の運動場で天皇の敗戦詔書の放送を聞いたことを思い出します。すでに半世紀を経た今になっても、改めてこの時期に思いをはせるのは、敗戦の歴史的教訓が忘れ去られようとしているのではないかという深刻な危機感が日々強くなっているからです。
 熊谷開作先生の17回忌の折、日本法制史の専門家に質問し、敗戦直後の日本の「民主化」の過程をもっと知りたいといいましたら、いろいろ参考資料を教えて頂きました。その中で、今日は、山中永之佑氏編「新・日本近代法論」(法律文化社、2002年)から、戦後の出発点となった2,3の事実を引用しておきます。
 1.1945年8月15日、天皇は日本降伏を詔書朗読によって国民に伝えた。詔書は「朕ハ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾(なんじ)臣民ノ赤誠に信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」と述べて、「国体護持」=天皇制維持を強調していた。
 2.ポツダム宣言は、日本がそれを受諾し、1945年9月2日の降伏文書に署名することによって、国際法的効力を有する一種の条約としてそれを履行する法的義務を連合国、日本の双方に課するものであった。
 3.しかし、ポツダム宣言の受諾にあたって総辞職した鈴木内閣を継いだ東久邇内閣は、一部の例外を除けば日本を非軍事化、民主化しようとする連合国の方針にことごとく対立した。・・・・東久邇内閣は、連合国総司令部の「政治的・宗教的・市民的自由ニ対スル制限ノ撤廃ニ関スル覚書」に従えば国内の治安維持はできないという理由から10月5日に総辞職した・・・・。
 以上の記述からは、当時の天皇の詔書に「国体護持」の安堵感が見られるものの戦争に対する反省は全くうかがえないこと、および敗戦直後の日本政府も旧態依然たる時代感覚を維持したまま、平然と戦後政治を始めようとしていたことを確認することができるでしょう。
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by nakayama_kenichi | 2006-02-22 17:21

ベーリングの構成要件論

 刑法を学ぶ者にとっては、ベーリングの構成要件論はなじみ深いものであるが、とくに私どもが学生時代には、小野、瀧川、佐伯などの大家によるドイツの構成要件論の展開の中で、真っ先に触れられたものである。そこでは、ベーリングが構成要件を違法性と責任から独立した形式的・客観的な「枠」としたのに対して、マイヤーは構成要件を違法性の認識根拠であるとし、メツガーは構成要件を違法性の存在根拠であるとして、構成要件を実質化する方向を辿ったという理解が一般的であったといえよう。
 ところが、最近、ある読者から、ベーリングの晩年の「指導形象」論について、それが上述の構成要件論の変遷とどのような関係にあるのかという質問が寄せられた。これは、専門家の間でも、むずかしい問題とされてきたものである。
 評価はほぼ2つに分かれるが、1つは、ベーリングが晩年には初期の「形式説」を変更ないし緩和して、「違法・有責類型説」に接近したことを意味するというものであり、もう1つは、形式説を維持しつつ、構成要件が違法・責任の実質を貫く「形象」であることを強調したものと評価するものである。私は、佐伯説にしたがって、後者のような評価に組するが、それが学説として一般化しているとは必ずしもいえないところに、問題を残している。
 ドイツの学説史とその思想的な変遷をたどる好個の問題のひとつとして、この問題の解明はいまだ終わっておらず、なお今後の継続的な検討が期待されているといえよう。
 それにしても、読者からの質問によって、古い問題が掘り起こされるというのは、専門家の反省を迫るものとして、その意義は大きいことを感じた次第である。質問者に、この場を借りて、感謝したい。
 
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by nakayama_kenichi | 2006-02-18 22:25
 熊谷開作先生の17回忌の法要が、2006年2月11日、京都東山の建仁寺の開山堂の両足院で行われました。ご親族とともに、阪大や龍谷大で先生の教えを受けた「日本法制史」の専門家が多数集まられ、先生の学問的な影響力の大きさと、飾り気のない磊落なお人柄をあらためて感じることができました。
 私は、専門は違うのですが、1990年頃に、熊谷先生からのご依頼を受けて、金沢の北陸大学法学部の創設にかかわって、しばらくの間でしたが、連日お会いして意見交換をするという貴重な経験をしました。先生は、その直後に急逝されましたが、私は先生のご遺志をついで、1998年まで北陸大学に赴任しました。今となっては、懐かしい思い出であります。
 建仁寺は、熊谷家の檀家寺で、お墓も境内にあるのですが、この建仁寺は、その名の通り、建仁2年(1202年)に建立された禅宗臨済宗派の総本山で、800年の歴史をもつ京都の古いお寺です。広い敷地に由緒ある建物が立ち並び、とくに静かなたたずまいの日本庭園には心を洗われる感じがします。京都に住んでいながら、なかなかこのような古いお寺を訪れる機会もない毎日なので、久しぶりに古き良き京都を満喫しました。
 ところで、その折に頂いた参考資料の中に、熊谷先生が1966年1月17日の毎日新聞夕刊に書かれた「ボアソナードのこと」という文章があります。これは、先生が文部省の在外研究員としてスウェーデン・ウプサラ大学に留学された折の帰国談ですが、そこには熊谷先生の若かりし頃の顔写真とともに、南フランスのアンチーブにあるボアソナードの墓の写真も掲載されています。ボアソナードは、明治6年に来日し、司法省法律学校で法律学の講義をしたほか、日本の民法典をはじめ、刑法や刑事訴訟法の編纂にも参加し、明治初期の法典編纂に大きな影響力を与えた大法律家であったことは周知の事実であります。
 熊谷先生の文章は次のように結ばれています。「『明治は遠くなりにけり』ともいわれるけれども、わたくしには、明治以降の諸制度の総決算がいま行われようとしているように思われてならない」。
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by nakayama_kenichi | 2006-02-14 16:07

天皇制について

 2006年2月11日の朝日新聞の「声」の欄に、鳥取県倉吉市の福祉施設職員の方から「憲法改正ならまず1条から」と題する注目すべき意見が出ているので、これを紹介しておきたい。
 「皇室典範改正の賛否を尋ねた記事があった。『賛成(39%)、反対(36%)の差はごくわずか』というものだったが、私は別の設問の数値に注目した。女性天皇に賛成ですか?の問いに、『女性もなれるようにした方がよい(61%)』に次いで、『天皇制はない方がよい(22%)』の答えが多かったことだ。私は天皇制に反対だが、今の日本の社会では、この意見はほんのわずかだろうと思っていた。だからこの数値に驚くと同時に喜んだ。戦後日本は身分制度を廃し、憲法はすべての国民の法の下の平等を規定している。だが一方で天皇制によって主権者である国民以上の存在、法の下に入らない存在を肯定している。すなわち生まれながらの身分を保障しているのである。この不徹底さが今なお多くの差別を根絶できない原因なのだ。生まれながらに尊い人がいる限り、生まれながらに卑しい人も存在し続けるのだ。私はコチコチの護憲派だが、改憲するならまず第1条からである」。
 私自身も、この欄を見て、いささか驚いた。皇室典範の改正問題にはほとんど興味がないので、このような世論調査の存在することも知らなかった。そして私も、今の日本で、「天皇制がなくてもよい」とする共和制論は、ほとんど取り上げられることもないままに、無視されてきたのではないかと思っていた。この世論調査の内容を再確認してみたいと思う。
 そして、今はもうすっかり忘れ去られているが、1945年8月15日の敗戦当時に、天皇の戦争責任が問題になり、それが憲法の「象徴天皇制」に落ち着いた歴史的事実を今一度フォローして見たいと考えるようになった。
 
 
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by nakayama_kenichi | 2006-02-11 19:01

「有識者会議」とは何か

 この前、「未決拘禁者の処遇に関する有識者会議」について触れましたが、この「有識者会議」というのが、最近目立つようになってきました。例えば、「社会保険庁のあり方に関する有識者会議」、「独立行政法人に関する有識者会議」、「皇室典範に関する有識者会議」などが報じられています。それらは、いずれもその道の最高の識見を持った人々の意見だからよろしかろうというのでしょうが、しかし、その法的な根拠も性格も権限も人選の基準も、全くあいまいなものが堂々とまかり通ることに、首をかしげざるを得ません。
 これらの問題は、いずれも国の基本的な政策にかかわる重要な課題であり、専門家の間でも意見の分かれるものですから、まずは慎重な調査研究から始めるのが当然と思われるのですが、現実には「有識者」に選ばれた少数の人々の意見によって、政策の基本的な方向が決せられていまうという手続自体に問題があります。
 そして、実際には、当局の目指す結論に賛成することを期待できる人が有識者の多数になるように、巧みな人選が行われることは、これまでの各種審議会の人選からも十分に予測されます。有識者の中には、財界や官界の代表者が有力なメンバーとして含まれているのです。
 問題は専門家としての大學の教授ですが、特定の利益代表ではなく、独立した中立の立場が期待されるにもかかわらず、政府の政策に異を唱えることは困難な状況に立たされます。大学や市民の代表として選ばれたのではなく、当局によって「有識者」に任命されたのですから、そこには最初から限界があると言わざるを得ないでしょう。
 しかし、それにもかかわらず、私はこれらの学者「有識者」に対して、説得的な少数意見を主張ないし紹介する勇気を期待し続けたいと思うのです。
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by nakayama_kenichi | 2006-02-08 20:09

2月は逃げる

 2月は28日(ただし、4年の一度は29日)しかないので、1月と比べると3日も少ない。したがって、1月から2月になるのと比べて、2月から3月になるのは早い気がする。昔の人は「2月は逃げる」といったものである。
 日給や時給制の者にとっては変わりがないであろうが、月給を貰っていた時には、短い労働時間で同じ給料が貰えるものだなあと思ったことがある。
 われわれのように、原稿を書く仕事をしている者にとっては、原稿の締め切り日が非常に気になるものである。2月末と3月末の締め切りでは、その実質的な意味は3日も違うので、戸惑うことがある。2月は早めに仕事をし、「2月を逃がさない」工夫が必要である。
 では、どんな工夫が必要なのであろうか。その結論は簡単であって、2月はきっちり4週間あるので、一週間ごとに仕事を配分し、それ以上はみ出すことがないようにすることである。その他の月ではあと2日ないし3日残されているが、これは「おまけ」として利用するだけの余裕がほしいものである。「おまけ」もたまれば大きいのである。
 2月は寒く、今年の2月はとくに寒いので、早く3月の春になってほしいという気持ちは自然な願望である。しかし、寒い2月に良い仕事を残しておいてはじめて、暖かい3月を気持ちよく迎えることができよう。その意味で、2月は短いが貴重な4週間なのである。
 私は、今年も2月末締め切りの原稿をかかえているので、これを完成してから、2月を無事に逃がした上で、3月を迎えたいものである。
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by nakayama_kenichi | 2006-02-07 21:50