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最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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大晦日の今昔

 とうとう2005年の最終日である大晦日になりました。
 最近は、年末・年始の恒例となっている家庭行事も次第に簡略に済ます「老人家族」となっていますが、それでも行動がスローになっただけ、手間暇がかかる年末のわが家の現風景です。しかし、今年は12月29日から1月2日まで、東京から来た孫娘(16歳)と3人の共同生活ということになりましたので、少し華やいだ正月になりそうです。
 かつての大學の現役時代の年末・年始の風景は、完全な夫婦分業で、私は多くの執筆原稿をかかえながら、自転車での買い物を分担し、家内は狭い台所一杯におせち料理を広げて、深夜まで悪戦苦闘するというパターンが続いていました。正月は2日から院生やゼミ生などがわが家を来訪することが慣例になっていましたので、その期待に答えるための準備体制が必要不可欠であったわけです。また、その当時から、年賀状の裏には家内がちょっとした「挿絵」(えとの動物)を書き、表も裏も自筆で筆書きするというスタイルが出来上がっており、その後も枚数は減りましたが、このスタイルだけは現在まで続いています。
 もっと昔の少年時代の年末・年始の風景は、雪におおわれた片田舎の素朴な風景です。12月30日は、玄関の広い土間で暗い早朝から大家族による「餅つき」の行事があり、子どもや少年にとっては年齢に相応しい腕試しの絶好の機会でした。屋根の雪降ろしは子どもにとっては危険な仕事ですが、玄関から前の広い道に至るまでの道路の雪かきは子どもたちの重要な仕事のひとつでした。まだテレビもない時代でしたが、ラジオ放送は少年にも身近なもので、雪国の田舎の炬燵の窓から見知らぬ都会の文化の感触をつかむことができたのです・・・・・・・。
 では、これで、2005年のブログも終了します。
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by nakayama_kenichi | 2005-12-31 12:52

年末研究会のこと

 毎年12月は、年末恒例の刑法読書会の研究会によってその年の締めくくりをすることになっています。今年は、12月26日と27日の両日、午前10時から午後5時まで、立命館大學で行われましたが、私自身は、今年は、残念ながら欠席という異例の結果に終わりました。
 26日は大阪の裁判所に出かける用件がありましたので、少なくとも27日は研究会に出る予定だったのですが、朝になって出かけようとして何だか急に気分がおかしくなり、午後から出席することにしてしばらく休養したところ、そのまま休んでしまうという結果になりました。
 刑法読書会の歴史は古く、夏と冬に集中研究会を行うことになっていますが、京都を不在にしていたときを除けば、休んだことはほとんどない状態が続いていましたので、今年の年末は残念な結果に終わりました。年は争えないということかもしれません。
 それにしても、年末といえば、40代や50代の若い頃は、東京に出かけて年末のぎりぎりまで研究会や本の編集会議などぎっしりと予定がつまっていたことを思い出します。たしか講座ものの編集をしていた4人のグループ(藤木、西原、宮沢、中山)が、ようやく会議を終わって一段落した際に、ほっと我にかえって4人とも申し合わせたように年賀ハガキを取り出して宛名を書き始めたことをなつかしく思い出します。藤木教授は若くて亡くなりましたが、颯爽とした風貌と驚くべき筆の速さが印象に残っています。最近、堀越事件の意見書を書きましたが、その際に、藤木教授の当時の貴重な論文を参照する機会があり、あらためてその対応のすばやさに感銘を受けました。今年も、間もなく暮れようとしていますが、研究者としての姿勢を維持して行くためにも、研究会を大切にして行きたいと考えています。
 
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by nakayama_kenichi | 2005-12-27 23:17

企業の政治献金こそ問題

 耐震偽造事件でまた関連企業からの政治献金が問題となっているが、これはいつ果てるともない政財界の癒着の構造のほんの一端を示したものに過ぎない。
 2005年12月24日の朝日新聞の社説は「政治と金」の問題を論じているが、そこでは、政治資金規正法が依然として「ザル法」のままであって、企業献金を受け取る「窓口」をいくつもつくれるのも随分と身勝手な話であり、外部の監査や残高証明も義務づけられていないので裏金処理の跡が絶たないという嘆かわしい現状が指摘されている。しかし、政治資金を一本化した報告や外部的監査の義務づけなどの改正提案は、これまですでに繰り返しなされてきたにもかかわらず、自民党内には慎重論が多いという理由で手づかずのままである。政治家に不利益な法的規制を政治家に期待することができないとすれば、国会は自浄能力と自律機能を失った利益集団に陥ったことを意味するのではあるまいか。
 また上記の社説は、政党交付金という名の税金が政党に配られている点にも触れて、その総額が316億円(昨年)にも及び、受け取りを拒む共産党を除く各党の重要な資金源になっていると指摘する(自民党収入の60%に近く、民主党収入の83%をこえる)。そしてその背景には、個人献金の伸び悩みという問題があるとした上で、政治への信頼を回復する第一歩は政治と金の関係の透明度を上げることだとし、それによって有権者との距離が近づき個人献金にも弾みがつけば、政党にとって大きな力を得ることになると結んでいる。
 しかし、この最後の段落は、全く理解し難い論理を含んでいる。政党交付金のほかに「企業献金」を野放しにしておいて、どうして個人献金に弾みがつくというのであろうか。逆に「企業献金」を制限し廃止することこそが政治家や政党を有権者に近づけ、献金した企業の利益を代弁する「選良」ではなく、国民の「公僕」たらしめる正道ではなかろうか。
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by nakayama_kenichi | 2005-12-24 11:32

政治献金の役割と構造

 2005年12月9日の朝日新聞の記事として、以下の2つが目についた。いずれも見逃してしまってはならない「政治献金」に関するものである。
 第1は、すでに古いもので、日本歯科医師連盟が、01年11月に橋本元首相、山崎元副総裁ら政治家7人に政治献金をしたという事件で、7人は政治資金規正法違反として告発を受けたが不起訴とされ、東京第2検察審査会などが山崎元副総裁について「起訴相当」、橋本元首相ら6人について「不起訴不当」と議決しため、東京地検特捜部が再捜査したが、いずれも再び不起訴とし、これで一連の捜査は終結するというものである。
 第2は、一番新しいもので、耐震偽装事件に関連して、自民党森派の政治団体が、05年12月8日、耐震強度が偽装された建物の建築主である「ヒューザー」「東日本住宅」や検査機関「日本ERI」などから政治献金を受け取っていたことを明らかにし、01年ー04年の献金分計660万円を返すことを決めたという。政治資金は規制法に従って適正に処理しており、政治資金は寄付者に返還し、被害救済に役立てて欲しいという談話を発表したというものである。
 前者は、政治献金の処理について政治資金規正法違反の立件でさえも、検察審査会の議決にもかかわらず、結局は見送られてしまうという典型例を示したものであり、国の刑罰権が下に厳しく上に甘い現実を顕在化したものといえよう。
 後者は、問題となって社会的批判を浴びた企業や団体が例外なく政府与党を中心に政治献金をしていることが明らかになっても、政治家がこれを返還すれば済むという構図を示している。そして、献金した企業や団体が非難され責任を追及されても、政治献金をうけた政治家の方には影響しないような仕組みが公然とまかり通っているのである。
 そして、後者の耐震偽装の関連会社からの政治献金は、上野公成・元官房副長官らに652万円という形で、まだまだ広がる可能性がある(朝日12月22日夕刊)。
 政党助成金があるにもかかわらず、政治献金が大手を振ってまかり通っている現実とその構造自体にメスを入れることが求められているのではなかろうか。
 
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by nakayama_kenichi | 2005-12-22 18:27

セクハラ懲戒の指針

 以前、言葉によるセクハラの限界を問題にしたことがあるが、人事院の「懲戒処分の指針」(平13)によると、「相手の意に反することを認識の上で、わいせつな言辞等の性的な言動(性的な内容の電話、性的な内容の手紙・電子メールの送付、身体的接触、つきまとい等)を繰り返した職員は、停職又は減給とする。相手の意に反することを認識の上で、わいせつな言辞等の性的な言動を行った職員は、減給又は戒告とする」となっている。そこには次のような問題がある。
 第1に、懲戒処分の対象となる「わいせつな言辞等の性的な言動」の意味と範囲に関して、指針に例示された行為の中には「性的なジョーク」や「容姿・服装に関するからかい」といったものが含まれておらず、むしろ「わいせつな」言辞という強い性格づけがなされているのが注目される。それは、性的な関心・要求に基づく性的な発言というよりもさらに限定されたものを意味することになるであろう。
 第2に、わいせつな言辞等の性的な言動がなされる際に、「相手の意に反することを認識の上で」という行為者の主観的な要件が必要とされている点も重要である。これは、たまたまわいせつな性的発言をし、それが相手の意に反したとしても、それだけでは不十分であって、意に反することを知った後、なおわいせつな発言をした場合にはじめて要件を満たすことを意味する。このことは、わいせつな言辞等の性的な言動という客観的な要件に対する主観的な故意が必要であるという当然のことを明示したものである。
 ところが、地方自治体の懲戒処分の指針の中には、単に「相手の意に反し」とするのみで、「相手の意に反することを認識の上で」という要件を除外したものが見られる。その結果として、相手の女性が不快と感じればセクハラになるという異常な論理がまかり通ることになりかねないおそれがあることを警戒すべきである。
 
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by nakayama_kenichi | 2005-12-22 17:02

60年ぶりの大雪

 今年の12月は寒い日が多く、とくに11日から12日にかけての大雪は北日本や裏日本だけでなく、近畿や中部地方の都市部にまで及びました。今年は記録的な大雪の年といわれていますが、最近ではむしろ雪が少ないことが常態化され、「暖冬」現象が定着していたことをあらためて知らされることになりました。
 私は滋賀県の最北部の「余呉村」(今は余呉町)に生まれましたので、子どものときから冬は雪との長い付き合いがあります。今年も余呉町柳ヶ瀬の大雪が報じられていますが、かつての大雪は今の比ではありません。今との決定的な違いは、2メートル、3メートルという雪の高さと量だけではなく、11月末頃から積雪が始まって、降り続いた雪が翌年の3月ー4月頃まで山も田畑も住宅も埋め尽くすという「長い雪の季節」が継続していたという点にあります。屋根の雪を落とせば家が雪に埋まって戸が開かず、暗い家の中に閉じ込められ、道路の雪も藁靴で踏みつけて歩き、黒い土は長い間見られない状態が続いていたのです。母親は、降り続く雪を仰いで、この雪の中に少しでも砂糖が入っていればと嘆いていたことを記憶しています。
 小学校へも細い雪道をマントを着て長靴を履き一列になって集団で歩いて毎日登校しました。
学校に着いたら汗びっしょりという状態でしたが、教室には大きな木炭のストーブがありました。
学校の校庭も雪で一面真っ白でしたが、子ども達は元気に遊んでいました。しかし、私は手足に「しもやけ」ができて難儀したことを覚えています。
 中学は虎姫まで5年間汽車で通学しましたが、敦賀方面から来る蒸気機関車は雪のために遅れるのが通常で、駅の石炭ストーブを囲んで時間待ちをするのが慣わしでした。60年以上も前の「雪の季節」との長い付き合いを懐かしく思い出すこの頃です。
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by nakayama_kenichi | 2005-12-21 09:57
 立川の防衛庁宿舎に自衛隊のイラク派兵に反対するビラをまいて住居侵入罪に問われた事件について、東京高裁は1審の無罪判決を破棄して有罪判決を言い渡した(2005年12月9日)。被告人らは「住居」の中に立ち入ったのではなく、玄関前の廊下(「共用」部分)からビラをポストに投函しただけであって、他の商業チラシも投函されているのに、なぜこのような行為だけが逮捕され処罰されるのかというのが素朴な疑問であり、それがビラの「内容」によるというのであれば、「表現の自由」の抑圧につながることになる。政府に反対する言論だから許されないということになるからである。
 この点で、1審判決が「ビラの配布は憲法の保障する政治的表現活動のひとつとして、商業ビラより優越的な地位を有する」と指摘したのは「表現の自由」を擁護する観点からは正論というべきものであったが、「共用」部分も「住居」にあたるとして構成要件該当性を認めてしまったために、「可罰的違法性」(刑罰を科すほどの違法性)がないというのが無罪の理由とされていた。
 控訴審判決は、この点を捉えて、管理権者の意思に反する立ち入りは相当性の範囲を逸脱し被害も軽微ではないとして、違法性は阻却されないとしたのである。そしてその背後には、表現の自由のためであっても他人の権利を侵害してよいといえないという「相対的な」憲法論が予定されている。
 この両判決については、本格的な批判的検討が必要であるが、控訴審判決が「共用」部分を住居ではなく「他人の看守する邸宅」に当たると解していることに注目すべきであり、そこからは、居住者のプライバシーではなく、「管理権者の意思」を制約する根拠や要件を検討する方向が目指されるべきであろう。また、「可罰的違法性」を構成要件該当性から分断する論理にも反省が必要である。
 
 
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by nakayama_kenichi | 2005-12-17 22:28

第2回の瀧川ゼミ生の会

 このブログの4月に、昨年12月に行われた第1回の瀧川ゼミ生の会のことを書いた際に、第2回目の予告をしておきましたが、去る12月11日(日)の正午から午後3時まで、京大近くの京大会館で、第2回目の瀧川ゼミ生の会を開きました。
 今年の12月の京都は大変寒くて、無事に開けるかどうか心配しましたが、案の定、出席予定者の中からも急に体調を崩す人が出て、結局ゼミ生14名のうち出席者は5名にとどまりました。昨年ご出席頂いた、瀧川先生の次女にあたられる栄子様は、今回は体調を考えて出席されませんでしたが、私が先月お伺いしたときはお元気で、瀧川ゼミ生の会のことを喜んでおられました。
 欠席者の中には、病気で外出できないという人がかなり多く、70代後半という年の重みを感じます。この一年間に亡くなったというゼミ生の訃報も届き、淋しい思いをしましたが、元気で若かった在学時代の面影をみんなで偲びました。
 しかし、当日出席した5名はみな元気で、再会を喜び合いました。今回は、鎌倉から来てくれたゼミ生が学生時代の昔話をよく覚えていて、昭和28年卒業前後の若かりし頃の話題に花が咲きました。なかでも、深刻な就職難の話が出て、まともな就職先がなく、苦労した話は、私自身の経験も含めて、当時の最大の関心事であったことを思い出しました。5人とも一流企業への就職はなかったのですが、その大きな理由のひとつとして、当時の学生運動に関係していた者が3人もいたことも当時の時代的な特徴をあらわしています。何とか中企業にすべりこんだ者以外は、大学院に籍を置き、司法試験を目指しましたが、その中のゼミ生に裁判官となった者がいたことは、私が大学に残って研究者になったこと以上に「偶然」と「幸運」の結果ではなかったかというのが、出席者の一致した意見でした。
 こぞって今の世相を嘆きつつも、来年もまた再会したいという共通の念願を胸にして、記念写真をとって別れることになりました。
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by nakayama_kenichi | 2005-12-14 18:23

今年の私の業績

 12月で今年も終わりますので、2005年中に公表された私自身の業績をまとめておきます。これは、昭和30年(1955年)から始まる私の業績表(平成8年までの「主要著作目録」は公表ずみー古稀祝賀論集5巻310頁以下)に今年の分を追加するものです。
 今年は、以下の9点にとどまり、昨年の17点と比べても著しく減少しました。
 ① 新版 口述刑法総論 補訂版(成文堂)
 ② 刑法の改正と法制審議会(法律時報77巻4号)
 ③ 心神喪失者等医療観察法の性格(刑事法研究10巻・成文堂)
 ④ 概説刑法 Ⅱ 第4版(成文堂)
 ⑤ 心神喪失者法とリスクマネジメント・上(判例時報1889号)
 ⑥ 心神喪失者法とリスクマネジメント・下(判例時報1890号)
 ⑦ 「共謀罪」法案の何が問われているのか(世界12月号)
 ⑧ 心神喪失者等医療観察法案の国会審議(刑事法研究11巻・成文堂)
 ⑨ 中谷陽二「恐怖のイメージが独り歩きする」ほか2編の紹介(刑事法学の動き・法律時報77巻13号)
 今年の特色は、著書の改訂や補正のほか、論文集が2冊出たことです。しかし、論文の数が減ったことは、年のせいもあり、やむを得ないところでしょうか。来年はどうなるのか、12月までブログが続けば、報告します。
 
 
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by nakayama_kenichi | 2005-12-07 19:20

熊谷開作先生のこと

 最近、「聞き書き・わが国における法史学の歩み(3)-熊谷開作先生の法史学を語る」(同志社法学55巻2号)の抜き刷りが送られてきた。これは、わが国の法史学の歩みを先輩研究者へのインタビューを通じて記録していくという企画の一環として行われたもので、一番弟子の山中永之佑さんほか2名による座談会の形式で編集されている。
 私は法史学には門外漢であるが、熊谷先生の温厚な人となりとヒューマンな学問的態度に惹かれるように、興味深く拝見した。かくも良きお弟子さんたちを含む門下生をたくさん育てられた点だけからも、熊谷先生の人と学問の魅力を実感することができよう。
 私と熊谷先生との直接の関係は、たしか私が大阪市大を定年退職前の平成元年(1989年)の秋に、龍谷大學を定年退職された熊谷先生から国際電話がかかり、新設予定の北陸大學法学部に来ないかという勧誘を受けたことから始まる。私は、とうとう先生の熱心さにほだされて、金沢まで出かける決心をし、先生と理事者との会談(京都タワーホテル)に何度か立ち会った。
 しかし、翌平成2年(1990年)の2月17日、まさにこれからが本番というときに、熊谷先生は突然病に倒れ不帰の人となられた。69歳とは今にして思えばまだまだの年齢である。私は当時63歳であったが、その後、先生のご遺志をつぐ覚悟を決めて、70歳までの数年間京都から金沢まで通勤した。そこでは多くの得がたい経験をした。
 その後は今日まで、毎年2月になると、熊谷先生宅を訪問することにしているが、奥様が私の恩師の瀧川幸辰先生の次女に当たられる方であるというのも、何か不思議なご縁があるように思われる。そして最近、法科大學院を受験中のお孫さんからもメールが届いた。
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by nakayama_kenichi | 2005-12-04 22:02