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最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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 今の刑法では、公務執行妨害罪(95条)にも窃盗罪(235条)にも自由刑(懲役・禁錮)の定めがあるだけで、罰金刑は存在しない。ところが、最近、これらの罪に「罰金刑」を新設することを主要な内容とする改正案が準備され、現在、法制審議会刑事法(財産刑関係)部会で審議中である。この点については、かつてこのブログにも質問が寄せられていたのであるが、自由刑よりも軽い罰金を加える趣旨であれば、最近の「重罰化」法案とは性格が違い、問題はないのではないかと思われていた。しかし、事柄はそれほど単純ではない。
 第1は、なぜ今、上記の両罪について罰金刑を新設するのかという理由である。それは、たとえば窃盗では、万引きが増えているのに、これをどこまで起訴すべきか悩みがあり、罰金刑がないために起訴猶予にしなければならないという不都合が生じているというのである。それは、起訴猶予事案を罰金にするという点で、「刑罰化」という効果を狙ったものであるといえよう。
 第2は、これまでの自由刑としての評価が罰金刑に落とされるという側面が意識的に否定されているという点である。これは、罰金刑が「短期自由刑の弊害」を避けるというリベラルな機能を持つとしてきた近代的な刑事政策論の通説的な考え方がかたくなに拒否されていることを意味する。公務妨害罪でも、これを自由刑として評価してきた基準は変わらないというのである。ここにも、起訴猶予事案の罰金化のみを念頭におくという権威的なかたくなさが現われている。
 第3は、窃盗罪の罰金が50万円以下であるのに、公務妨害罪の罰金は30万円以下の罰金として区別されている点である。それは、公務妨害罪には自由刑が相当で、罰金相当事案は少なく狭いからだというのである。しかし、これもかたくなな態度であり、そうなると公務妨害罪の方が業務妨害罪(233条)の法定刑(3年以下の懲役又は50万円以下の罰金)よりも軽いことになって整合性がとれないというジレンマが避けられない。
 この問題については、これまでの刑法改正論議における罰金刑拡大の提案を歴史的に踏まえつつ、もっと率直に罰金刑の活用による刑法の「自由化」機能を認めていくべきだと思われる(拙稿「財産刑の適用範囲の拡大について」自由と正義45巻1号28頁、1994年、参照)。
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by nakayama_kenichi | 2005-11-29 12:33
 米倉教授は、法科大學院がスタートしたとなれば、法学部はもはや必要ではなくなり、廃止すべきなのではないかといわれるのである。しかし、そうなれば事は重大である。
 教授によれば、法科大學院ができた後にもなお法学部を存続させて教育するという場合には、その教育内容は実体法と手続法のほんの「初歩」を伝授することによって「リーガルマインド」という思考パターンを養うということになろうが、それは他の学部でも可能であり、他学部卒業生であっても法曹を志望する者は法科大學院に入学すればよいといわれる。
 また、法曹の独善に一般国民の側からブレーキをかけるとか、法律の普及を促進することも、法学部の存続によって図れるというわけではなく、それよりも法科大學院を充実させ、とくにその卒業生の大半が法曹資格を取得できることにして、法曹を大幅に増加させることによって、一般国民との接触をこれまでよりも格段に濃密にすることを通じて実現できるのではないか。今や大転換をはかるべき時期が到来しているといわれるのである。
 しかし、以上のような主張は、「法科大學院の卒業生の大半が法曹資格を取得できる」ことを前提とした立論であって、その前提が保障されないまま、法科大学院制度の性格やその先行き自体になお不分明な部分を残している現状の下では、少なくとも時期尚早の感を免れず、にわかに賛成し難いように思われる。法科大學院が出来たことによって、法学教育が影響を受けることは明らかであるが、その場合にも、法学研究者養成機関としての大學院との関係のほかに、法学部との関係にも慎重な配慮がなされなければならない。この点についての当局の考え方、及びこれまでどんな議論があったのかということを私は寡聞にして知らないが、これらの情報を明らかにした上で、慎重な論議を重ねていく必要があると考える。
 むしろ私見としては、法科大學院を各大学の法学部から切り離し、ブロックごとの連合大学院(8ヶ所)として独立させるという方法が妥当ではないかと考えていたことを付記しておく。
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by nakayama_kenichi | 2005-11-28 11:32
 先に米倉明教授の「法科大學院雑記帳」(その1)を援用しましたところ、大きな反響がありましたので、その後の続編の目次を以下に掲げておきます(「戸籍時報」580号ー589号)。
    1.法科大學院研究はどうなるのか(その1)
    2.法学部廃止のすすめ(その2)
    3.新司法試験の合格者数について(その3)
    4.法教育は必要か(その4)
    5.未修者の二類型(その5)
    6.法律勉強適齢期(その6)
    7.法科大學院の不祥事について(その7)
    8.未修者に対する考え方(その8)
    9.未修者に対する試験(その9)
   10.推薦状は必要か(その10)
   11.以下未定
 私などと違って、現に法科大學院の教育に携わって苦労されている教員の手になるものだけに、その内容には重みがありますが、現状に対する率直な批判を含んでいる点で注目に値するものがあると思われます。上記のテーマはいずれも興味を引くもので、多くの方々ができるだけこれらを直接に参照されることを期待しますが、私としては、そのうちのいくつかの点について、コメントをして行きたいと思っています。
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by nakayama_kenichi | 2005-11-28 09:47
 最近、私は「違法性の錯誤の実体」は何か、という問題に再度取り組んでいる。これは、刑法解釈論における困難な問題のひとつとして、すでに戦前の古い時代から論議されながら、いまだに論争が続いているテーマである。それは、故意の犯罪が成立するためには、被告人は犯罪を構成する事実を認識しただけでなく、その事実が違法であるということも認識していなければならないのかという点に関連する。殺人罪などでは、人を殺すという事実の認識があれば、当然に違法性の認識もあったと認められるが、たとえば「禁止区域での銃猟行為」を処罰するためには、銃猟することの認識だけでは足りず、法的に「禁止」された区域内で銃猟するという認識も必要ではないかと言われるのである。
 「狐落とし」治療術とは、加持祈祷を業とする者が病者についた「狐を落とす」と称して行う迷信的な治療術をいうが、そこで行われた有形力の行使(もむ、さする、おさえる)によって、被害者が傷害を負い、さらに死亡したような場合に、処罰されるとすれば何罪が成立するのかという点が判例上問題になったことがある。
 戦前の大審院判決は、これを単純に「業務上過失致死罪」に当たるとしていたが、戦後の下級審判例(東京高判昭31・11・28高刑集9・12・1251)は、これを「傷害致死罪」に当たるとした。その相違は、暴行の故意の成否の判断にあるが、後者の判例では、被告人に暴行の事実の認識がありながら迷信のためにこれを有効な治療行為だと誤信したのは「違法性の錯誤」なので故意を阻却しないとされたのである。
 なぜ、突然、この問題をブログで取り上げたのかといえば、この判例については、すでに私自身が昭和32年の若い助手時代に「判例批評」を書いていたことを思い出し(法学論叢63巻4号87頁)、あらためて50年も前の自分の古い文章を読み返すという貴重な機会があったからである。
 なお、私の当時の評価は、この判例を疑問とし、被告人には暴行の故意がなく、「業務上過失致死罪」が成立するというものであって、この結論は今も変わっていない。
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by nakayama_kenichi | 2005-11-23 11:19
 私の最近のコメントに対して、それは学生へのサービス精神を欠いた時代遅れの研究至上主義の思想のあらわれであり、実務を経験したことのない”ぬるま湯にひたっていた”一人の人間の甘えであるという厳しい批判を受けました。
 そのような印象を与えかねなかった点は反省していますが、そのような評価は少なくとも私自身のこれまでの思想と実践とは違うものだと確信しているということだけは指摘しておきたいと思います。
 私自身は、戦後当初の旧制大学と大學院で「学生」の経験をし、その後は大學の「教員」として、教育と研究に長年従事してきましたが、最近では客員弁護士として少しばかりですが実務にも関係しています。
 その中で、私はむしろ「古い研究至上主義」から脱却して学生への教育指導の側面に力を入れるべきであることを次第に痛感するようになりました。講義の方法にも工夫し、前回の復習に資するような「自習問題」を配布し、短時間に解答させてコメントをするという方法も、かなり早くから取り入れていました(「口述刑法総論・各論」の付録、参照)。
 一方、研究の面でも、研究の意欲と関心を喚起し持続させるために複数の「研究会」を組織し、これを最大限に利用することによって、年代と大學の相違を越えた研究者の自主的な連帯と協力を維持し発展させようと努力してきたつもりです。そして、刑法解釈学の範囲をこえた、他の領域との共同研究にも関心を持って参加してきました(選挙、労働、環境、医療問題などに関連する著書など、参照)。
 ただし、私は批判的な立場から発言することが多いからでしょうが、当局の任命する審議会の委員などに選ばれた経験がなく、在野的な精神の表現にとどまっています。
 
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by nakayama_kenichi | 2005-11-23 10:31

反響に驚いています

 米倉教授の文章を読んでブログに書きましたら、あちこちから反響があって、いささか驚いています。それぞれの立場からの発言を読みますと、いずれにもそれなりの理由があると感じました。私自身は一人の刑法研究者として、長年にわたって参加してきている月例「研究会」の出席者が少なくなりつつある現状を憂慮し、その原因のひとつとして、法科大学院の教員の仕事の忙しさがあるのではないかと思ったのです。 したがって、法科大學院の教員が今の「教育」の仕事を犠牲にして「研究」に重点を移せなどと主張するものでは決してありません。
 ただし、大學の教員である限り、教育と研究のいずれも大事にすべきであって、そのバランスと相互促進の効果をいかに維持していくべきかという重い課題は残っています。かつての古き良き大學では、教育面の負担が相対的に軽く、研究面への関心と時間的余裕に恵まれていたのですが、最近はこの関係が明らかに変化し、両者のバランスを維持することが次第に困難になってきているということができます。そして、法科大学院では、この矛盾がもっとも著しく現われているように思われるのです。
 「法科大学院」の性格については議論のあるところですが、それが実務家養成試験のための予備校といったものでない限りは、実務家教員とは異なる研究者教員の役割があるはずで、研究者としての資質と力量が「教育」面に反映されることが期待されているというべきでしょう。そして、法科大学院の教員にそのようなプラスアルファを期待するのであれば、それに相応しい保障のもとで、いっそうの研鑽が要請されるということになるでしょう。
 ただし、それ以前に、法科大学院の学生の希望と努力が報われるような未来図が描ききれないところに、根本的な制度的問題があることはいうまでもありません。
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by nakayama_kenichi | 2005-11-21 16:20
 最近の「戸籍時報」580号(平17・2)に、米倉明氏(早稲田大学大学院法務研究科教授)が、「法科大学院雑記帳(その1)」と題する特別寄稿文を掲載されており、その中に、「民法出でて忠孝亡ぶ」に続いて、今や「法科大学院出でて研究亡ぶ」という事態に陥っていると喝破されているのが目にとまりました。私もかねてからそのように感じていましたので、わが意を得たりと満腔の賛意を表する次第です。
 私自身は、もう定年後の身なので、幸いにも直接の影響を免れており、現役の法科大学院の教授の方々に同情申し上げるほかないのですが、それにしても、現状があまりにひどいことに驚きの念を禁じ得ません。法科大学院の教員には恒常的に「研究の時間がない。研究の時間が与えられない」というのは、何としても通常の理解を超えた異常な現象であり、しかもこの状態に改善の見込みがないというのでは、個々の研究者の悲劇というにとどまらず、わが国の法学研究全体に深刻な危機をもたらすおそれがあります。
 私の周りの現役教授に声をかけても、法科大学院が忙しくてという挨拶がまず返ってきて、その忙しさの内容を具体的に聞いていますと、研究上の話題をしたり研究会への出席を誘ったりすることに気がひける思いをすることも稀ではありません。長らく研究会の常連であったある教授も、法科大学院に関係するようになってからはほとんど出席されなくなりました。今や研究会は、若い院生を除けば現役の教授の出席がとみに少なくなり、「法科大学院出でて研究会亡ぶ」という事態が進行しつつあります。
 法科大学院の教授にも研究の時間を与えて本来の「研究者」になってもらわないと、法科大学院自体の将来も危なくなるでしょう。米倉教授の「続編」を楽しみにしつつ、法科大学院の内部から「改革の声」が湧き上がることを期待したいものです。
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by nakayama_kenichi | 2005-11-15 19:07
 1950年に出版された古い本(末川博代表『大学を守ろう』三一書房)の中に、国家公務員の政治活動を禁止した人事院規則について書かれた戒能通孝氏(著名な法社会学者)の文章を発見したので、その中心部分を引用しておきたい。下級公務員が休日に政党機関誌を郵便受けに投函したとして起訴されるといった事件(堀越事件)が発生しているので、この規則制定時の批判に耳を傾けなければならない。以下はその引用である。
 「昭和24年9月17日附けで制定された人事院規則によると、憲法は表現の自由を保障しはするけれども、自由に意見を表明した人を投獄、罰金、免職の処分に附する自由を認めることに決めてしまった。・・・・・これは全く恐ろしいことであり、憲法を5年だけ逆転させたものである」。
 「休日に共産党の議員候補者のために選挙運度の手伝いをしたからといって・・・・彼は自己の職務に忠実であり、郵便物の配達を機械のように正確に行うであろうなら、模範的公務員として賞めてもらうことができるであろう。雇主としての政府が彼に対して要求できるのは、まさにそれだけのことである。彼を雇い入れたから、人格的服従を要求できると思うのは、むしろ人買的思想に外ならない」。
 「高級官僚は政府の従属者であって、政府から独立の人格を持つという余地はあまりない。・・・・しかし高級官僚の従属者として、機械的な事務補助者として配属された公務員達は、本来自己の生活と勤務とが、はっきり分かれる立場に立っている。・・・・彼は自己の機械的な勤務内容を果たした後、人間に立ちかえる。高級官僚は常に官僚にすぎないのであるが、人間機械は機械であるとともに人である。彼は自己の売却した労働時間を終えた後、自己を幸福な人間たらしめるには、いかにすべきか考えねばならない。彼はそこで政治活動ができるだろうし、またすることが人間の権利であり義務である」。
 50年以上も居座り続けている「人事院規則」の制定時の思想のルーツを改めて想起することの必要性を痛感する。とくに高級公務員と下級公務員を区別する視点が重要だと思われる。
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by nakayama_kenichi | 2005-11-13 21:25

新しい本の出版

 今年は、2005年3月に「心神喪失者等医療観察法の性格」と題する書物を出版しましたが、そこでも予告していましたように、この法案の国会における審議過程を分析したものを早くまとめたいと思っ準備していました。それが今日、11月10日に出版されました。「心神喪失者等医療観察法案の国会審議」と題するものです(論文集11巻)。
 本書の「まえがき」にも書きましたように、その内容は、この法案が2002年に国会に上程されてから、第154,155,156国会にまたがり、衆議院、参議院の審議を経て、2003年7月に成立するまでの全期間を通じて、主として法務委員会における質疑の状況を間断なくフォローし、その理解に資するために私自身が必要なコメントを付したものです。本稿の執筆は2002年末から始まり、2003年夏まで継続し、幸いにもその成果は、当時の「判例時報」誌にかなり長期に連載されました(1808号から1860号まで不定期連載)。
 この法律は、心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者に対し、継続的かつ適正な医療ならびに観察および指導を行うことによって、その病状の改善およびこれに伴う同様の行為の再発の防止を図ることを目的とするものとされていますが、立法過程では「再犯のおそれ」の要件を削除する「修正案」が通過したという重要な経過があります。そのことが本法の「性格」と施行後の「運用」にどのように反映されて行くのかという点が問われているのです。
 本法が予定した指定入院機関のうちわずか2ヶ所しか稼動していない状況の下で、すでに数十件を越える検察官による申立てがあり、裁判所による入院の決定もかなり出ていますので、施設が早晩満杯になることが当然に予測され、通院にともなう受け皿の確保などの困難な問題があるほか、申立てから鑑定入院期間中の「医療」の確保と手続中の人権をいかに保障するのかという課題も山積しています。そして、その際の原則的な処遇の理念や基準を考える際には、本書に示した立法論議が参照されることを願っています。
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by nakayama_kenichi | 2005-11-11 11:34

雑誌「世界」12月号

 岩波の雑誌「世界」の2005年12月号が出版され、2冊送られてきました。これは、原稿の執筆者に対する慣例のようです。自分の書いたものを見るのは気がひけるものですが、これを読んでみると、執筆したときの気持ちが再現されて複雑な気分になるものです。
 ところで、普段は、自分の狭い専門分野の文献以外には、総合雑誌の類をあまりゆっくり読む機会がないのですが、今回は折角の機会なので、この「世界」12月号の他の論文や記事にも目を通してみました。その中から、いくつかの感想めいたことを記しておきます。
 第1は、本号が「米軍再編の真実―日本が前線司令部になる日」という特集号になっていますので、まずは「在日米軍」の存在とその現実、そして最近における再編の動きについて、事態の深刻さを改めて思い知らされました。たしかに、米軍基地の再編問題は、一般のマスコミにも報じられていますが、沖縄を含む基地周辺の人々の敏感さを別とすれば、国民一般の関心事とはなっていないのが現実です。その壁をいかに乗り越えるかが今後の課題です。
 第2は、改憲問題の高まりですが、現行憲法9条が自衛隊の「自衛軍」への移行を許さない楯になっていることを確認するとともに、9条があるからこそ、日本外交は「9条の制約」を理由に米国に抵抗することができているという側面にも目を向けるべきだという提言に惹かれました。ここでも、米軍との関係を意識すべきことが示唆されています。
 第3は、いわゆる靖国問題ですが、ここでは靖国神社参拝が単に「違憲」だと判断されるべきであるだけでなく、遺族の同意も全くないままに戦犯とともに「合祀」を強いられ、取り下げも許されないという権力的な措置を糾弾し、救済を求めて行くという動きです。この点については、必ずや国民一般の支持が得られると思います。
 そして、以上のような批判的なアプローチは、小泉流の弱者切捨てではなく、市民による協同と連帯運動の再生以外にはないとする論調に同感しました。
 
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by nakayama_kenichi | 2005-11-10 15:43