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最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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ブログの夏休み

 今日は、7月31日(日)で、明日から8月に入ります。
 今年の3月からこのブログを続けてきましたが、家庭の事情もありますので、8月はブログも夏休みとさせて頂きます。
 8月にもすでにいくつか予定が入っていますが、その成果については、9月になってから報告することにします。
 パソコンはその間も動いていますので、ブログへのご意見はいつでも伺います。
 どうか、よろしくお願いします。
 皆さんのご健勝を願っています。
                          2005年7月31日午後11時55分
                                   
                                         中山 研一
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by nakayama_kenichi | 2005-07-31 23:56

共謀罪の立法化

 一定の犯罪に当たる行為を「団体の活動」として「組織により」実行しようと共謀すれば、それだけで処罰するという「共謀罪」を新しく立法化するための法案が、現国会に上程されている。
この法案は、2003年の国会に提出されたが廃案となり、2004年にサイバー犯罪対策と併せて提案されたが、審議入りできなかったという経緯がある。
 この法案に対しては、野党のみならず、与党議員の中からも、処罰範囲が広過ぎるので、組織的犯罪集団に限定するとか、少なくとも何らかの準備行為が必要ではないかといった疑問も出されており、今国会での成立は困難で、継続審議になる可能性が大きいといわれている。
 この問題については、新聞誌上にも批判的な観点からの解説がなされてきていたが、中でも、2005年7月29日の朝日新聞朝刊が、「共謀罪の是非を問う」というテーマで、椎橋隆幸氏(中央大學教授)と、海渡雄一氏(弁護士)との対談を掲載してのが注目される。その内容のコメントをする前に、ここでは、刑法学会ないし刑法学者の対応という点を指摘しておきたい。
 以前に、刑法の法定刑の加重案が問題になった際に、刑法学会がきわめて冷淡で無関心であることを批判したことがあったが、今回の共謀罪の新設に関しても、その対応は変わっていない。刑法学者有志の反対声明は出ているが、学会で本格的な討議が行われた形跡はなく、むしろ回避されているようにさえ見えるのは、何としても問題であるといわなければならない。
 しかも、この法案も事前に「法制審議会」を通過しているのであるが、上の椎橋教授をはじめ何人かの刑法学者が委員・幹事として参加し、賛成しているにもかかわらず、この問題に関する本格的な論文が公表された例を聞かないのも不思議である。私自身は、この問題についても、法制審議会の議事録(匿名!)を検討し直さなければならないと考えている。
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by nakayama_kenichi | 2005-07-28 12:07

吉川経夫先生からの電話

 最近は、東京在住の吉川経夫先生からときどき電話がかかってくる。舌がんにかかられたので、話される言葉に分かりにくいところがあるが、「中山君。吉川です・・・」とかかってくると、途端に安心感が湧いてきて、変幻自在な吉川節に乗せられた楽しい会話がはじまるのである。お互いに大學の現役を離れた古い世代であり、現状への批判に相槌を打つという展開になることが多い。
 吉川経夫先生は、京都のお生まれで、京都一中、三高、京大法学部と進まれ、1950年(昭和25年)には京大法学部助手になられた。しかし、1952年には法政大學に転出されているので、1953年に京大に残った私とは、すれ違いに終わり、かなり長い間お会いする機会がなかった。親しくお付き合いするようになったのは、平野・平場両博士が「改正刑法草案」に対抗するために1970年代に東西の研究者を結集して作られた「刑法研究会」の場であったが、吉川先生はすでに1960年代から「改正刑法準備草案」の起草にかかわって、この問題には一貫して取り組んでおられた。おそらく現在では、刑法改正問題の歴史的な経緯についてもっとも精通されている第一人者であるといってよいであろう。
 吉川先生は、一時期、音信不通の状態になっておられたが、日の丸・元号法制化問題で突如目覚められたこともあって、その信念には徹底した筋金が入っている。「敗戦」を決して「終戦」とは言わず、西暦以外の元号は決して用いないという先生の頑固さには敬服するほかはない。これでは、判例の検索に困るのであるが(判例は、明治、大正、昭和、平成の元号のみ)、元号では比較法に困るほか、とくに平成では西暦との換算に苦労することが多い。元号法制化の矛盾は深いことを、あらためて吉川先生から学ぶ必要を痛感するのである。
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by nakayama_kenichi | 2005-07-25 22:13
 7月22日(金)の午後、大阪の事務所に顔を出したが、猛烈な暑さのため早めに引き上げて、梅田から阪急電車の快速特急に乗ったところ、全く偶然にも、隣の座席の人から声をかけられ、それがずっと昔、京大近辺の「ナウカ」書店に勤めていた人であることが判明し、びっくり仰天してしまった。これは、奇遇というほかはない。
 「ナウカ」とは、ロシア語で、「科学」(science)という意味であるが、めずらしく対応するローマ字があり、Hayka と書いて「ナウカ」と読む。当時のナウカ書店からは、私の研究室用と私用とをあわせて、ロシア語の専門書を多く購入したが、当時のソ連の出版物は紙の質がわるく、製本もお粗末で、保管と整理に苦労をした。しかし、最大の利点は、価格が西欧の本と比べてはるかに安価で、遠慮なく多くの本をまとめて購入できた点にある。
 私は、京大から大阪市大に移ってからも、1990年のソ連崩壊までは、ロシア語の文献の購読と紹介を続けており、継続して購入していた刑事法を中心とする書物は今も大學の図書室に保存されているものと思われる。
 当時の私にとっては、ロシア語の本は研究の主要な源泉のひとつであり、書物のl翻訳を含む資料の紹介などは実に枚挙にいとまがないほどで、自分でも熱心に取り組んだかつての充実した基礎的な研究生活の日々がなつかしい思い出として残っている。
 私は、その後、金沢の北陸大學まで研究室の本を運んだが、定年退職時には、とうとう置き場がなく、大事な本だけを残して、その多くを整理し処分せざるを得なかったのが悔やまれる。ロシアも変わったが、歴史的な意義は失われていないと思う。
 
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by nakayama_kenichi | 2005-07-23 09:40

自分の本を読む

 去る7月16日に、慶応大学で開かれた「国際比較刑事政策研究会」に招かれて、久しぶりに慶応大学を訪れた。平野博士の刑法学と犯罪者処遇論論についての報告にコメントを加え、新しい心神喪失者等医療観察法についてもコメントして討論に参加してほしいというのが、加藤久雄教授からの依頼であった。何しろ年なので、お役に立つかどうかわからないと申し上げたが、是非にといわれて出席することにした。
 結果的には、何とか無事に役目を果たすことができ、大學の研究者だけでなく、法務省や医療刑務所のスタフ、それに精神科医の方々とも交流することができて、私自身にとっても大変勉強になった。帰りには、明治大学の院生からサインも求められた。
 今回のテーマは、私が年来勉強してきたものなので、特別の準備はしないつもりであったが、折角の機会なので、関係する文献や資料を読んで論点を整理する準備作業をした。そして、その過程で、実は自分の書いたものも改めて読み直してみて驚いたことがある。
 それは、かなり古いものであれば、自分で書いたことも細かい点は忘れてしまっているということであり、大事なところは再確認のためにコピーをとって持参することにした。最近は、忘れることが多くなっていたが、自分の仕事についても例外ではないという現実に気づかされたのである。脳の老化現象は確実に進んでいるのであるが、その進行をどこまで遅らせることができるかが問題であり、これも工夫次第であることを実験してみたいと思うようになった。
 この研究会では、平野刑法学の特色が合理的で柔軟な問題解決的思考方法にあり、初期の目的的行為論への傾倒は異質のものであったこと、心神喪失者法は「医療モデル」であって、人格障害者対策とは別次元のものであることなどの点を指摘した。
 
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by nakayama_kenichi | 2005-07-21 18:34
 私が大學を卒業して大學院に残ったのは、1953年(昭和28年)4月でしたが、旧制大學院にはスクーリングというものがなく、指導教授の瀧川先生とは研究室でときどきお会いするという程度のものでした。しかし、同時に出発した新制大学院にはスクーリングがありましたので、私は当時教授になられたばかりの平場安治先生の大學院ゼミにもぐりで参加させて頂いたことがあります。当時の院生のメンバーとしては、光藤、繁田、阪村、西本、藤尾、尾中といった顔ぶれをなつかしく思い出します。
 平場先生は、刑訴法とともに刑法も教えておられましたが、刑法の主題はもっぱら「目的的行為論」に焦点がおかれていました。それは、戦後にドイツから入ってきたばかりの新鮮な刑法学説で、日本でも、同世代の平野龍一、井上正治教授が好意を示し、次世代の福田平、中義勝教授らもこれに加わるという形で、大きな流れを形成しつつあったということができます。
 当時の平場先生の大學院ゼミで印象的だったのは、先生が机の上に、煙草の箱やマッチを並べてこれを動かながら、具体的な例をあげて、ゆっくりと説得的に説明されていくという姿で、院生たちは何かマジックにでもかかったように、その論旨を拝聴するというスタイルが定着していたように思われます。従来の通説がその前提から崩されて、新学説の観点から再構成されていくという構図は、見事なマジックのように見えたのです。私自身は、いくつかの疑問を提起しましたが、平場先生の確信は不動のようでした。
 その後、平野説が批判に転ずるとともに、目的的行為論の波も沈静化しましたが、平場先生が最後までその立場を変えることなく、独自の理論体系を主張し続けられたことは、その人間的なあたたかさと広い包容力とともに、今でも弟子たちの心の支えになっています。私も、目的的行為論には組しませんが、関西の伝統ある先生として尊敬しています(平場先生は、2002年6月27日逝去、85歳)。
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by nakayama_kenichi | 2005-07-20 16:50

夏休みの使い方

 私は、長らく大學に勤めていましたので、夏休みをいかに有効に使うかということが毎年の重要な課題でした。かつての古き良き時代には、7月10日頃から9月10日頃まで、ほぼ2か月間、講義から解放されて、研究に専念できるという恵まれた状況におかれていました。
 しかし、学生諸君はいうに及ばず、研究を本務とする教員の職にある者にとってさえも、与えられた長い夏休みを有効に使うことができたかは疑問で、むしろ結果的には失敗の繰り返しに終わるという苦い経験をすることが多かったのではないかと思われるのです。
 その理由の第1は、普段は出来ないで溜めていた宿題を全部夏休みに丸投げすることによって、夏休みが過大な負担を背負いこむという「無計画性」にあります。夏休みに入る前に、宿題を整理した上で、夏休みの期間に実現可能な計画を立てるべきでしょう。
 第2は、夏休みが長いからと安心して、なかなか態勢がとれないまま、スタートが遅れることが多いということです。夏休みの後半になってようやく開始したけれども、軌道に乗らないうちに終わりが見えてきたため、あわててその場を濁すという中途半端なことになりかねません。むしろ、十分な準備を整えて実行に着手する前半こそが勝負であって、できれば7月中に一定の方向性を出しておかないと手遅れになるおそれがあるでしょう。
 第3は、継続性を確保することが難しく、中断したり、停止したり、やり直しになったりすることが多いということです。無理をしなくても、コンスタントなスピードを維持することができるための工夫を編み出さなければなりません。「急がず、たゆまず」という新渡戸稲造博士の格言を肝に銘じるべきでしょう。
 今年の夏も暑そうですが、私自身も、9月始めまで努力して、その成果を反省したいと思います。
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by nakayama_kenichi | 2005-07-19 22:55

日弁連の刑事法制委員会

 私は、日本弁護士連合会の「刑事法制委員会」との縁が深く、最近でもほとんど毎月の会合に出席し、毎年8月に開かれる合宿研究会にも参加することにしている。今は大阪弁護士会から選出された委員としてであるが、それ以前の大学在職中からも、この委員会の「助言者」という資格で、長年にわたって関係してきている(おそらく30年にも及ぶ)。かつては、中義勝先生や内藤謙さんなども、助言者として参加されていた。
 この委員会の名称には変遷があり、かつては刑法改正阻止実行委員会と呼ばれていたこともあったように、保安処分を含む刑法改正問題に深くかかわるものであった。そして、私自身も、学界でこの問題を終始追っかけてきたのである。
 この委員会の最大の魅力は、創設以来の中心的メンバーが、各人の思想的な立場は異なり、それぞれきわめて個性的であって、相互に自由かつ率直に批判し合いながらも、しかし肝心の人間的な連帯と弱者保護の観点では、瓦いを信頼して一致点を見出そうとする絶妙のチームワークによって結ばれていたという点にある。
 私は、この魅力に惹かれ、委員会に参加することが楽しく、その中で気持ちよく勉強させてもらったことを感謝している。原秀夫先生は亡くなられたが、今でも、渡辺脩、高木茂、石川元也などの古いメンバーはなお健在で、委員会はさらに若いすぐれた人材を加えることによって、かつての雰囲気を維持し続けている。犯罪化と重罰化の荒波が押し寄せてきている現在、この委員会の存在意義はますます高くなることは疑いない。古き良き伝統を維持発展されることを心から期待したいものである。
 私も、古いメンバーとともに、もうしばらく何らかの貢献をしたいと思う。
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by nakayama_kenichi | 2005-07-18 15:50

再び靖国問題について

 昨日、東京行きの新幹線の中で、毎日新聞を見ていたら、「靖国」に関する記事が目にとまった。それは、A級戦犯合祀が27年前、個性派宮司によって、東京裁判否定を狙って断行されたというものである。A級戦犯の合祀は信徒代表らでつくる「崇敬者総代会」がすでに1970年に了承し、自民党も靖国神社法案を国会に提出していたが、1978年に第6代宮司となった松平永芳氏が「懸案」にケリをつける意味で決断し合祀手続をとったという。この記事からは、次の2点を確認することが重要と思われる。
 第1は、松平氏が後日、当時の心境を次のように明らかにしている部分である。「(就任を)決心する前、東京裁判を否定しなければ日本の精神復興はできないと思うから、いわゆるA級戦犯の方々も祭るべきだという意見を申し上げた」。つまり、A級戦犯の合祀は、東京裁判を否定しなければ成り立たないという論理的な関係にあることが明確に意識されていたのであり、日本の精神復興とは東京裁判を否定した戦前の思想の復活を意味していたのである。
 第2は、A級戦犯の合祀が松平宮司の意思だけで実現したとも言えず、政府がそのレールを敷いた側面もあるとし、合祀名簿の原本となるリストの作成に旧厚生省が関与しており、松平氏も「国会機関による公的決定」を経たという認識を強調していたと指摘されている部分である。A級戦犯合祀の決定は当時の政権中枢によって了解されていたのである。
 この記事は、小泉首相が東京裁判を認めながら参拝を続けるという論理の矛盾を明らかにするものであるが、そのほかにも靖国神社に公式参拝を繰り返す数十人の国会議員に対して、改めてA級戦犯の戦争責任についての所見を問いたいところである。アメリカ占領軍が天皇の戦争責任まで問題にしたという事実も決して忘れ去られてはならない。
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by nakayama_kenichi | 2005-07-13 11:16

野球部の思い出

 私は、子どもの頃から、5歳上の兄のキャッチボールの相手をしていたこともあって、小学校の低学年の頃から野球に興味がありました。そして、旧制中学では、兄の後を追って、2年生のときから野球部に入って、継続的な練習に汗を流した経験があります。今の全国高校野球大会の前身である全国中等学校野球大会にも参加しましたが、いつも県大会の予選で敗退するという弱いチームでした。しかし、グランドの球拾いから出発してレギュラーにまで育って行く過程を少年時代に体験したことは、決して無駄ではなかったと思っています。当時の私は、プロ野球にも興味をもっていましたが(巨人軍の川上)、大學野球の方がもっと人気が高く(早慶戦でなぜか早稲田を応援)、ラジオ放送を聞きながらスコアブックに記録するという熱心さでした。
 ところが、大東亜戦争に入るとともに、野球は敵性スポーツであるとして批判され、私どもの野球部も、私が4年生の昭和17年頃には、とうとう解散に追いやられてしまいました。柔道や剣道や銃剣術などが好きでなかった私は、大変困った末に、グライダー部に入りました。もっとも、地上の整備作業に従事しただけで、グライダーで空を飛ぶという貴重な経験は、結局最後まで回避したままに終わりました。
 戦後は、野球が解禁されましたが、高等商船学校で少し練習を続けただけで、高校と大學ではその余裕もなく、むしろ大學に残ってから、教員の対抗戦に出て腕試しをした思い出が残っています。プロ野球の方も、今は、巨人が嫌いなだけで、あとはどこが勝っても気にならなくなりました。
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by nakayama_kenichi | 2005-07-11 22:48