最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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 今、心神喪失者等医療観察法の成立過程における「日精協」(日本精神科病院協会)の役割を検討しているところであるが、その過程で、「日精協・政治連盟ニュース」(2002年11月30日)という興味ある文書を参照する機会があった。その内容はいずれ詳しく紹介するが、とりあえず気のついたいくつかの点をあげておきたい。
 第1は、このニュースが、心神喪失者法案の早期成立を重要な柱のひとつとした「日精協」の全国集会の模様を収録した特集号であり、「声明」によれば、継続審議になっている本法案の成立はこの時期を逃がすと2-30年は機会がなくなるもので、早期成立を切に願うという態度を表明していたことである。
 第2は、しかしそれにもかかわらず、日精協の役員をはじめとする発言者には、心神喪失者法案に賛成というものの、法案の内容に触れたものは少なく、とくに修正案に対する評価など肝心の論点はほとんど素通りされているという不思議な現象が見られる。
 第3は、むしろ主題が民間病院の団体である「日精協」として精神障害者に対する社会復帰政策の充実を政府に求めるという趣旨のもとに、いわゆる社会的入院の解消(10年間に7万2千人)をかかげた厚労省案が病床の削減に連動するおそれのる机上の空論であるとして、その官僚主義的な政策を批判するという点に力点がおかれていることである。
 第4は、その厚労省の副大臣である木村義雄氏が、この社会的入院の問題には一言も触れることなく、法案の早期成立に省をあげて取り組んで行きたいと発言し、日精協の発展を臨むと結んでいることである。両者の関係はまことに意味深長である。
 第5は、この日精協の全国大会には、国会開会中の超多忙な国会議員の中から、自民党の
山崎幹事長、保守党の野田党首、公明党の神崎代表の与党3党代表をはじめとする55名もの国会議員が来賓として出席し、数名が挨拶をしているということである。この点は、後ほど心神喪失者法案を審議した国会の場で「政治献金」の問題として浮上することになった。
 あとは、またの機会に触れることにする。
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by nakayama_kenichi | 2005-05-14 21:36

官と民の関係

 構造改革という名の下に「民営化」論が時代の流れのようになる中で、国立大学も法人化され、刑務所まで民営化の可能性が論じられるようになってきている。軍隊が行う戦争の一部を民間の警備会社が請け負うという実態まで知られるようになった。
 しかし、問題が民営化によって解決されるというのは甘い幻想にすぎないように思われる。たとえば、日本の精神病院は国公立病院がきわめて少なく、大部分が民間の精神病院であって、その点では民営化の模範ともいえるであろうが、実際にはそのために民間の精神病院が多数の長期入院患者をかかえ、貧しい医療体制の温存を余儀なくされているという側面があることはまぎれもない事実である。そこには、国(官)が本来果たすべき役割を「民」に押し付けているという関係があるといえよう。
 公共的性格の問題にかかわる「官」と「民」の関係については、いずれの側にも考慮すべき問題点がある。まず「官」の側には、国が果たすべき責任を明確化して、市場主義から相対的に独立した原則を市民のために平等に保障することができるが、その反面として「官僚主義」の弊害から特権を温存したトップダウン方式に毒されるおそれがある。一方、「民」の側には、権威的な統制を回避し得る自由な活動の余地は広がる可能性があるが、その反面として「市場主義」の影響から競争と効率の原理が支配し、自己責任の名のもとに格差が拡大して社会矛盾が増幅するおそれがある。
 したがって、いずれの側にも、メリットとデメリットがあることを確認したうえで、民営化が何をもたらすのかということを判断しなければならない。差し当たり、国立大学の法人化後に、研究費の削減や授業料の値上げがなぜ出てくるのかを考えても、それが「市場主義」の影響であって、「官僚主義」の克服に役立つものではないのが残念である。
 
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by nakayama_kenichi | 2005-05-12 12:41
 心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者に対して、継続的で適切な医療並びに必要な観察を行うことにより、その病状の改善及びこれに伴う同様の行為の再発の防止を図り、その社会復帰を促進することを目的とした法律は、2003年7月に公布され、公布後2年以内の2005年7月までに施行される予定になっている。
 ところが、肝心の指定入院医療機関の建設が進まず、施行期限時に受け入れ可能なのは国立の2か所にすぎない状況なので、政府・与党は、所定の病床数(国立8か所、都道府県立病院16か所)が確保できるまでの間、経過措置として措置入院を受け入れている都道府県立病院を厚労相の指定を受けなくても「代用」できる案などを検討していると報じられた(朝日2005年3月27日)。
 しかし、このまま「代用」で施行されることになれば、特別病棟で高水準の「手厚い医療」を提供する制度であるというこの法律の謳い文句が泣くことになり、裏切りも甚だしいということになりかねない。施行直前に法律を改正するというのもきわめて異例で強引な手法といわざるを得ないのである。十分な施設が整うまで施行を延期するのが当然というべきであろう。
 しかも、施設面の不備だけでなく、この法律には、適用の手続上も、裁判所による入院等の決定の基礎となるべき「鑑定入院」(2か月プラス1か月)中の医療および処遇に関する規定がないために、その間の身柄拘束の根拠は何かという疑問が生じている。これはやや難しい問題であるが、鑑定が終わった後の医療と観察を誰が誰の責任で行い得るのか、同意がなくても行い得るのか、不服の申立ては誰に対して行えるのかといった重大な問題が存在する。したがって、この問題を論議し、必要な規定を補充するまでは、施行を延期するのが、立法者の当然の義
務というべきであろう。
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by nakayama_kenichi | 2005-05-10 22:29
  刑法学会が6月に北海道で開かれるという案内をもらった。
 いささか迷った末に欠席の返事を出した後で、東京の吉川経夫先生から電話があり、刑法学会に出席しないかというお誘いがあった。先生の方は、奥様と同伴で行きは飛行機、帰りはブルーとレインとか。学会の研究状況も自ら確かめられ、吉川先生のほか、各地の旧知または若い会員にもお会いできる貴重な機会であることを思って、また少し迷ったが、結局はやはり、欠席することに決めた。その最大の理由は、飛行機に乗ることにどうしても心理的な拒絶反応があるからである。
 これまで、外国に行くときは飛行機をかなり利用したことがあり、別段トラブルに巻き込まれたような経験はないが、国内ではほとんど乗らないことにしており、それで心理的な安定が得られているので、このままにしておきたいというのが率直な気持ちである。
 北海道が決して嫌いなわけではなく、ゆっくりした汽車の旅行なら行きたいという気持ちは残っている。(20年以上も前に北大に集中講義に出かけたことがあった)。
 そんなわけで、今回の刑法学会には出席しないことが決まり、友人の会員の皆さんには悪しからずお許し下さいというほかはない。
 因みに、私は戦前、高等商船学校にいたことがあるが、1メートルも泳げないのに船の学校に入り、海の恐怖を経験したことで、本能的に「臆病さ」が身にしみたのかもしれない。
 列車の過密運転も心配だが、飛行機も飛びすぎているのではないだろうか。
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by nakayama_kenichi | 2005-05-08 10:29
 4月13日のこの欄に、●入り議事録と格闘中と記載しましたが、その原稿が完成しました。
 私の問題意識は、なぜ法制審議会の議事録が発言者を「匿名」にしているのかという疑問にありました。そして、その疑問が解けないままに議事録の検討は終わりました。
 いずれどこかに公表する予定ですが、私自身がこの改正要綱案の審議中に法制審議会長に提出した「要望書」がありますので、公表することは、必ずしも私の本意ではないのですが、全く返答がないままになっていますので、一般の参考に供したいと思います。
   法制審議会長         鳥居純子様
   法制審議会刑事法部会長  大谷 實様
        議事録の公開に関する要望書           2004年6月15日
  去る5月22日の刑法学会の第3分科会「交通犯罪」の会場で、同趣旨の発言をしましたので、改めてその趣旨を述べ、ご検討の上、できるだけ早く善処されるよう要望します。
 現在、法制審議会刑事法部会では、凶悪・重大犯罪に関する刑事法の整備についての要綱を審議中と聞いています。それは、殺人、傷害、傷害致死、強制わいせつ、強姦、強姦致死傷を含む有期刑の法定刑の大幅な見直しと引上げを含むもので、現行刑法の根幹にかかわるものとして、重大な問題であると思料します。
 ところで、審議会は非公開となっており、その議事録は公表されていますが、そこでは発言者の氏名欄が●になっています。そのため、どの委員の発言であるかが分からず、審議の脈絡や推移をフォローすることができないので、議論の内容を正確に理解することができないもどかしさがあります。また、引用することも不可能です。
 これでは、議事録が公開されている意味がなく、かえって不信感を増幅するものといわざるを得ません。公表の趣旨からすれば、秘匿すべき特別の事情がない限り、氏名の部分も公開されるのが当然ではないでしょうか。
 また、このような形式が採られることによって、とくに学者委員が学会や研究会などで審議会の審議内容を公表して、広く他の専門家や一般の人々の意見を聞くという姿勢を萎縮させ、オープンな立法論議を妨げる傾向にあることが憂慮されます。
 本来ならば、審議会の内部から出るべき動きが全く見られませんので、あえて文書で要望します。また、私と同様な意見をもっておられる刑法学会の会員も少なくないと思いますが、とりあえず、私が個人として要望書を提出します。
 なお、この要望書は、審議会の各委員にご配布の上、各委員の意見を聴取し、理由を付した解答書を頂ければ幸いです。
                               京都大學名誉教授 中山 研一
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by nakayama_kenichi | 2005-05-06 13:57

Haste not   Rest not

2004年12月に、東北の盛岡を始めて訪れた機会に、雪のそぼ降る「盛岡市先人記念館」を訪問したことがあります。その折、数多くの郷土出身の偉人の中に、刑法学者である小野清一郎博士の名に目がとまりましたが、記念館を一巡するうちに、新渡戸稲造記念室の中で、小さな遺品の中に座右の銘が書き込まれているものに引き寄せられました。
       Haste not
       Rest not
      
       急がず、たゆまず
 
 というのがそれです。「休まず」ではなく「たゆまず」となっているのが印象的でした。
 私は、とっさに強く共感するところがあり、先人の偉大さが身にしみた次第です。
 そして、このことを、最近の自著「心神喪失者等医療観察法の性格」(成文堂2005年)の「まえがき」に書きましたら、団藤先生からのお手紙に、私も遺品を見て感銘を受けたこと、新渡戸先生は私の最も尊敬するひとりで、旧制高校時代と大學時代と2度聞いた講演を今でもよく覚えているという趣旨のことが書かれており、再度感銘を深くした次第です。
 また、慶応の井田教授によりますと、この言葉はもともとはゲーテの詩の一節に由来するとのことで、偉人とのつながりがさらに広がる嬉しさがあります。
 私も、遅ればせながら、「急がず、たゆまず」残りの人生を過ごしたいものです。
 
 
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by nakayama_kenichi | 2005-05-04 16:05

古い日記

 連休中に古い資料を探していたら、随分古い学生時代の日記が出てきた。日記はほとんど書いた記憶もないのでめずらしいものだ。古いノートの表紙には「日誌」といい記載があり、1952年1月7日よりとなっているが、中身はほとんど白紙で、わずかに1952年1月7日から同年4月17日までと、1953年8月3日から同年9月3日までの間、読みにくいペン書きの字で数ページが埋められているにすぎない。
 前半の1952年始めの時期は、私が京大法学部3回生当時で、結核のため長期休養を余儀なくされ、大學は休学して雪国の田舎で療養していた頃である。勉強したい気持ちは持ちながらも、大學の講義にも出られず、就職の心配もあって、あせりと悩みの気持ちがにじみ出ている。
「英文毎日は毎日来るし、法律時報、エコノミスト、会社法など、勉強のための材料は揃っているのだが・・・・・・、根気が続かず、体への影響も考えてあまりつめてはやらず、気まぐれに流されている」とある。(結局は、身体検査で就職試験は不合格に終わった)。
 一方、後半の1953年夏の時期は、ようやく大学院の特研生に採用された後、京都の鳴滝に下宿を始めた頃にあたる。研究者になるための身分と方針は決まったものの、まだ体調に不安をかかえた駆け出しの頃のおぼつない心境が現われている。「暑いけれど、するだけの勉強はせねばならない。今日はドイツ語をやった。語学には根気が肝要」と書きながら、「8月に入ってから余り几帳面に勉強していない。刑法学も全く前途遼遠だ。確実な一歩こそ大切だ」というように、まだまだ軌道に乗ったとはいえないひ弱さが感じられる。当時は27歳の独身時代であるが、体重は17貫800グラム(約67キロ)と記録されている。
 それ以後は、1974年から1976年までの2年間ポーランドに留学していた期間の日記が残されているだけで、あとは毎年の行事手帳によってしか、過去の記憶を辿ることができない。私にとっても、日記を続けることはできなかったのである。
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by nakayama_kenichi | 2005-05-03 14:05
 古い資料の中から、「京都大学教官研究集会」に関するものが出てきたので、その中からいくつかの事実を紹介し今に伝えておきたい。
 京大教官研究集会は、1960年の日米安保条約改定期における国会の強行採決に反対する民主主義擁護の国民運動の中で生まれたもので、当時の記録によれば、1960年6月14日に有志教官38名が発起人となって安保改定問題について第1回の全学教官研究集会が開かれて声明を採択し、学内教官の間で署名運動が行われている。
 そして、1960年7月に世話人会が形成され、恒常的な組織として活動することになった。規約は明文化されなかったが、「目的」は安保問題で危機に瀕した民主主義を守り育てることとして意思統一し、「事業」としては学内外の諸問題に学部の枠をこえた全学的な立場から研究と話し合いの場を作り、専門分野の知識を交流することによって学部間の交流を行うこと、さらには学生をも対象にした講演会を開くことなどが提案された。
 この京大教官研究集会は、その後1969年まで、約10年間、京都大学内の学部をこえた自主的な教官の集まりとして、実にさまざまな学内外の問題について活発な意見の交換をし、社会的なアピールの活動もしていた。その中には、安保問題のほか、大學の自治と大學管理問題、紀元節問題や小選挙区制の問題、日韓問題やベトナム問題まで含まれている。
 当時の世話人は、各学部の中心的な錚々たる教授陣であったが、今では亡くなられた方が多く、事務局のメンバーもすでに退官している。私も、事務局員のひとりであったが、当時のl記録を復元することによって、国立大學の教員による自主的でリベラルな活動の「息吹き」の一端を明らにしたいと思う。この続きは、またの機会にする。
 「国立大學法人」(独立行政法人ではなく)となった国立大学における大學の自治と学問の自由の現状については、現役の教員に聞いてみたいと思う。
 
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by nakayama_kenichi | 2005-05-03 12:57