最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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2005年 05月 03日 ( 2 )

古い日記

 連休中に古い資料を探していたら、随分古い学生時代の日記が出てきた。日記はほとんど書いた記憶もないのでめずらしいものだ。古いノートの表紙には「日誌」といい記載があり、1952年1月7日よりとなっているが、中身はほとんど白紙で、わずかに1952年1月7日から同年4月17日までと、1953年8月3日から同年9月3日までの間、読みにくいペン書きの字で数ページが埋められているにすぎない。
 前半の1952年始めの時期は、私が京大法学部3回生当時で、結核のため長期休養を余儀なくされ、大學は休学して雪国の田舎で療養していた頃である。勉強したい気持ちは持ちながらも、大學の講義にも出られず、就職の心配もあって、あせりと悩みの気持ちがにじみ出ている。
「英文毎日は毎日来るし、法律時報、エコノミスト、会社法など、勉強のための材料は揃っているのだが・・・・・・、根気が続かず、体への影響も考えてあまりつめてはやらず、気まぐれに流されている」とある。(結局は、身体検査で就職試験は不合格に終わった)。
 一方、後半の1953年夏の時期は、ようやく大学院の特研生に採用された後、京都の鳴滝に下宿を始めた頃にあたる。研究者になるための身分と方針は決まったものの、まだ体調に不安をかかえた駆け出しの頃のおぼつない心境が現われている。「暑いけれど、するだけの勉強はせねばならない。今日はドイツ語をやった。語学には根気が肝要」と書きながら、「8月に入ってから余り几帳面に勉強していない。刑法学も全く前途遼遠だ。確実な一歩こそ大切だ」というように、まだまだ軌道に乗ったとはいえないひ弱さが感じられる。当時は27歳の独身時代であるが、体重は17貫800グラム(約67キロ)と記録されている。
 それ以後は、1974年から1976年までの2年間ポーランドに留学していた期間の日記が残されているだけで、あとは毎年の行事手帳によってしか、過去の記憶を辿ることができない。私にとっても、日記を続けることはできなかったのである。
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by nakayama_kenichi | 2005-05-03 14:05
 古い資料の中から、「京都大学教官研究集会」に関するものが出てきたので、その中からいくつかの事実を紹介し今に伝えておきたい。
 京大教官研究集会は、1960年の日米安保条約改定期における国会の強行採決に反対する民主主義擁護の国民運動の中で生まれたもので、当時の記録によれば、1960年6月14日に有志教官38名が発起人となって安保改定問題について第1回の全学教官研究集会が開かれて声明を採択し、学内教官の間で署名運動が行われている。
 そして、1960年7月に世話人会が形成され、恒常的な組織として活動することになった。規約は明文化されなかったが、「目的」は安保問題で危機に瀕した民主主義を守り育てることとして意思統一し、「事業」としては学内外の諸問題に学部の枠をこえた全学的な立場から研究と話し合いの場を作り、専門分野の知識を交流することによって学部間の交流を行うこと、さらには学生をも対象にした講演会を開くことなどが提案された。
 この京大教官研究集会は、その後1969年まで、約10年間、京都大学内の学部をこえた自主的な教官の集まりとして、実にさまざまな学内外の問題について活発な意見の交換をし、社会的なアピールの活動もしていた。その中には、安保問題のほか、大學の自治と大學管理問題、紀元節問題や小選挙区制の問題、日韓問題やベトナム問題まで含まれている。
 当時の世話人は、各学部の中心的な錚々たる教授陣であったが、今では亡くなられた方が多く、事務局のメンバーもすでに退官している。私も、事務局員のひとりであったが、当時のl記録を復元することによって、国立大學の教員による自主的でリベラルな活動の「息吹き」の一端を明らにしたいと思う。この続きは、またの機会にする。
 「国立大學法人」(独立行政法人ではなく)となった国立大学における大學の自治と学問の自由の現状については、現役の教員に聞いてみたいと思う。
 
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by nakayama_kenichi | 2005-05-03 12:57