秋田雨雀と植木枝盛
2009年 11月 20日
まず、前者では、秋田雨雀(1883-1962)が、芸術家・文学者であっただけでなく、非戦思想の持ち主で、社会主義の思想に接近し、1927年にはロシア革命10周年記念に招待されて、エスペラント語の講演をするなどの特異な経歴をもっていたことを初めて知りました。
その雨雀が、すでに戦前の大正期から石川啄木(1886-1912)の研究を手がけ、とくに、いわゆる「大逆事件」に係わる啄木の社会評論を研究し、その識見を評価していたこと、そして戦後も最後まで啄木の研究と顕彰に努力を惜しまなかったといわれています。
一方、後者は、植木枝盛(1857-1892)という人がとくにその自由民権思想によって戦争絶滅・軍備撤廃という思想と世界平和構想を日本で初めて論文に書いたほか、とくにこれを憲法草案(日本国国権案、1881年)という形で具体的に提言したことが特筆されていますが、その中の多様な人権規定のうちのいくつかが紹介されています。
第44条「日本の人民は生命を全うし四肢を全うし形体を全うし健康を保ち地上の物を使用する権を有す」。第45条「日本の人民は何等の罪ありと雖も生命を奪われざるべし」。第48条「日本人民は拷問を加えらるることなし」。第59条「日本人民は何等の教授をなし何等の学をなすも自由とす」。第63条「日本人民は日本を辞すること自由とす」。その他、陪審裁判を受ける権利のほか、抵抗権や革命権に至るような権利まで含まれているところに、驚くべき先見性と創造性を見ることができます。
実際には大日本帝国憲法(1889年)は、これらの思想を否定して制定されたものですが、戦後の日本国憲法の源泉はむしろ植木草案につながっているというのが著者の結論です。