最近大学を離れ、論考を公表する機会が少なくなってきました。論文として公表する以外の資料や感想文などを公開する場を持ちたいと考え、このブログを開設しました。


by nakayama_kenichi
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旧友の戦争体験

 8月2日、郷里の余呉町まで、恒例の墓参りに出かけました。今年は、兄の初盆でもあり、親族で近くの余呉湖畔の「余呉湖荘」(国民宿舎)まで出かけて昼食を済ませたあと、湖岸に住む旧友のK氏宅を訪問しました。彼とは、余呉小学校、虎姫中学校時代の同級生の関係です。
 昔話に花が咲きましたが、なかでもK氏の戦争体験をつづった記録(滋賀県健康福祉部政策課が県内で巡回展示中の「戦争体験展示会」の資料)は、はじめて拝見するもので、その中には驚くような事実が記載されていました。ただし、われわれの世代は、外地に出征した経験はなく、国内での出来事に限られています。
   K氏は、戦時中の旧制中学時代の軍事教練や、高島郡の饗庭野での連合演習などの模様に触れて、中学校にはみな鉄砲があり、兵器庫があり、いわゆる三八銃を担いで演習をし、匍匐訓練や射撃練習なども、配属将校の監督下で行い、松本部隊(校長の名)と称する分隊編成で活動していたことを、当時の貴重な写真入りで紹介されています。
  そのあたりまでは、私自身も参加して承知していたのですが、K氏が1945年8月11日に現役に入隊する日に膳所駅から乗車し、途中の守山駅で米軍のグラマン機の機銃掃射を受けたときの体験には戦慄を覚えました。乗客は急いで駅前の防空壕に向かったのですが、一杯で溢れ、頭だけを突っ込んだ恰好のまま、機銃掃射にさらされ、K氏のすぐ横の兵隊さんが撃たれて即死し、K氏も弾が脇腹をかすめて傷を負ったというのです。それは、もうすんでのことで死んでいたという危機一髪の体験です。
  戦争末期は、内地にいても危険で、関西では大津の琵琶湖畔から敦賀の日本海に抜けるコースがグラマン機やB29の通り道であったといわれていました。危うく命拾いをした後、すでに戦後60年余を生きぬいたK氏の貴重な戦争体験を無にしてはならないと痛感しました。
 
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by nakayama_kenichi | 2009-08-12 09:57